武将名鑑【信長の野望 新生】
朝倉義景(あさくらよしかげ)
朝倉義景(あさくらよしかげ)
朝倉義景 の能力値 | |||||
---|---|---|---|---|---|
統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
41 (1742 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
34 (1992 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
42 (1864 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
51 (1253 位) | ||||
合計 | 168 (1994 位)2201人中 |
朝倉義景 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
別名 | 延景 | ||||
幼名 | 長夜叉 | ||||
仮名・通称 | 孫次郎 | ||||
法号・戒名 | 松雲院殿太球宗光大居士 | ||||
父 | 朝倉孝景 | ||||
母 | 高徳院 | ||||
配偶者・正室 | 細川晴元の娘 | ||||
側室1 | ひ文字姫(近衛稙家の娘) | ||||
側室2 | 小宰相(鞍谷嗣知の娘) | ||||
側室3 | 小少将(斎藤兵部少輔の娘) |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
誕生年 | 1533年 | 朝倉家5代当主。孝景の嫡男。将軍・足利義昭と結び織田信長包囲網の一角を担うが、次第に勢威を失う。刀禰坂合戦で敗北を喫し、一族に背かれて自害した。 | |||||||||
死亡年 | 1573年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
保守 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
|||||||||||
作事 | 城下施設の建設速度上昇 | ||||||||||
数奇 | 家宝をまれに入手 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
|||||||||||
撹乱 | 敵部隊の体力低下 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 元服前 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 21 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 28 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 38 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 死亡 |
朝倉義景が登場する合戦
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野田・福島砦の戦い [織田信長と三好三人衆]
1570年8月26日 ~ 9月23日
大阪府大阪市福島区玉川付近
-
坂本城の戦い [織田信長の越前・北近江平定]
1570年9月16日 ~ 19日
滋賀県大津市坂本
坂本城址公園と琵琶湖
先の姉川の戦いにて織田・徳川連合軍に敗れた越前の朝倉家と北近江の浅井家は、野田・福島砦の戦いで信長が窮地に陥ったのを見ると、元亀元年(1570年)9月16日、3万の大軍を率いて坂本口に出陣します。
これに対し、坂本のやや南にあり琵琶湖西岸方面における重要な拠点であった宇佐山城を守っていた信長の弟の織田信治は、森可成、蒲生茂綱ら4,000の兵で坂本に打って出ます。
しかし9月19日本願寺顕如の要請を受けた坂本里坊、延暦寺の僧兵達も朝倉・浅井連合軍に加わり織田軍は大敗し、織田信治・森可成が打ち取られてしまいます。 -
宇佐山城の戦い [織田信長の越前・北近江平定]
1570年9月20日 ~ 21日
滋賀県大津市錦織町
9月20日続いて宇佐山城を朝倉・浅井連合軍は二手に分かれ包囲します。
城将を失った織田軍であったが、寡兵ながら士気は高く可成の家臣の各務元正、肥田直勝は防戦に務め猛攻を防ぎます。
そのため宇佐山城を攻略することを諦めた朝倉義景・浅井長政はそのまま京都に入ると、醍醐・山科まで進み、周辺を放火している。
蒲生茂綱は休む間もなく激闘を繰り広げた末に壮烈な討死を遂げたが、浅井・朝倉勢が茂綱の首を切り落としたところ、喉から手拭いが転がり落ちてきた。
茂綱は濡れた手拭で口中の渇きを癒しつつ、次々と押し寄せる連合軍の敵兵に対処していたのだった。 -
志賀の陣 [織田信長の越前・北近江平定]
1570年9月24日 ~ 12月14日
滋賀県大津市坂本一帯
-
小谷城の戦い [織田信長の越前・北近江平定]
1572年7月21日 ~ 9月16日
滋賀県長浜市湖北町伊部
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大嶽城の戦い [織田信長の越前・北近江平定]
1573年8月12日 ~ 13日
滋賀県長浜市湖北町伊部
浅井長政と織田信長との対峙が続くなか、長政配下の山本山城主である阿閉貞征が子・貞大と共に信長に内応する。
8月10日、内応によって孤立した小谷城を攻略すべく、信長は自ら3万の大軍を率いて北近江への侵攻を開始し、虎御前山の砦に本陣を布いた。
長政から後詰の要請を受けた朝倉義景も、大軍を率いて出陣すると、刀禰坂を経て柳ヶ瀬に着陣し、先陣が小谷城の一郭にあたる大嶽城に入っている。
12日、阿閉貞征・貞大父子が先手を務め、織田軍はこの大嶽城を急襲した。
朝倉勢は形成を不利とみて柳ヶ瀬に敗走していったため、信長は小谷城の包囲を嫡男の信忠に任せ、自ら先頭をきって朝倉軍の追撃を実行し、刀根坂の戦いとなる。
-
刀禰坂の戦い [織田信長の越前・北近江平定]
1573年8月13日
福井県敦賀市刀根
天正元年(1573年)織田信長が浅井長政・朝倉義景を滅ぼすため戦を仕掛けます。
信長は3万の軍を率いて岐阜城を発ち近江に攻め入ります。まず浅井長政の小谷城が包囲されてしまいます。
朝倉義景は小谷城を救援するため大嶽砦に布陣するも、暴風雨の中織田勢に奇襲を行われ陥落していまいます。
織田勢は続いて朝倉勢が守る丁野山城も落とします。
朝倉勢は主力重臣らを欠いた上、戦意も低く、勝ち目がないことを悟り越前へ撤退を決断しました。
朝倉軍が撤退を開始するや、信長は本隊を率い、自ら先頭指揮を行って朝倉軍を追撃します。
義景は疋田城への撤退を目標とし、経路である刀禰坂に向かったが、ここでも信長自らが率いる織田軍の追討を受ける。
余呉から刀禰坂、敦賀にかけての撤退中、朝倉軍は織田軍に押され、織田方の記録に拠れば3,000人以上と言われる死者を出した。
朝倉軍もある者は踏み止まり、ある者は反転して織田方を押し戻すなど果敢に奮闘したが、北庄城主の朝倉景行や当時17歳の朝倉道景、朝倉景氏、朝倉景冬、といった一門衆を含め、朝倉氏の客将となっていた斎藤龍興や河合吉統、山崎吉家など大名・朝倉氏本家の軍事中核を成していたであろう武将が多数戦死しました。
織田軍は翌14日まで朝倉軍を徹底的に追撃した。
これにより朝倉軍の近江遠征軍、つまり朝倉本家の直属軍勢と部将はほぼ壊滅し朝倉義景は手勢のみを率い、一乗谷へ帰還しました。 -
疋壇城の戦い [織田信長の越前・北近江平定]
1573年8月14日
福井県敦賀市疋田
刀禰坂の戦いで朝倉勢は約3000名が討死すると言う大敗北を喫し、体勢を立て直すため当主の朝倉義景は朝倉氏の両国最南端を守る疋檀(疋田)城に入った。
しかし8月14日の早朝から織田勢の猛攻を受け、朝倉勢は敗走する。
義景もわずかな手勢で一乗谷城へ落ちていった。
-
賢松寺の変 [織田信長の越前・北近江平定]
1573年8月20日
福井県大野市
信長軍の追撃が激しく、朝倉義景は疋壇城からさらに一乗谷に逃れた。
その間に家臣の寝返りや逃亡が相次ぎ、到着した頃には側近が10名ほどになっていた。
重臣で従兄弟の朝倉景鏡に促されて越前大野に逃れ、賢松寺に入り再起を図るも、この景鏡もすでに織田信長に通じていたため、8月20日早朝、賢松寺に滞在していた義景を200騎の兵で襲撃してしまうのである。
予期しない家臣の裏切りにより、義景は進退窮まって自刃した。
義景の母・高徳院や夫人の小少将、子の愛王丸の3人は景鏡に捕らえられて殺されている。
この首級は京都で獄門に曝された。
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