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濡れた手拭で喉の渇きを癒しつつ防戦した蒲生茂綱(がもうしげつな)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、織田氏の家臣である蒲生茂綱(がもうしげつな)、別名青地茂綱、駿河守です。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
蒲生茂綱の生まれ
蒲生茂綱は蒲生定秀の次男として誕生します。
生年は不明ですがゲーム信長の野望では1535年と設定されています。
母が馬淵氏の出身であったので近江国の国人・青地長綱の養子となりました。
兄弟に蒲生賢秀関盛信の室がいます。
永禄6年(1563年)2月11日付の着到状によると、率いた兵は1,500騎を超えたとされています。
父と同様に六角義治に仕えていましたが、永禄11年(1568年)、織田信長の南近江侵攻により主家の六角家が織田家に降ります。
以降は兄の蒲生賢秀と共に織田勢として伊勢国の北畠家の攻略などに従軍します。
坂本の戦い
浅井氏・朝倉氏が織田氏と敵対します。
先の姉川の戦いにて織田・徳川連合軍に敗れた越前の朝倉家と北近江の浅井家は、野田・福島砦の戦いで信長が窮地に陥ったのを見ると、元亀元年(1570年)9月16日、3万の大軍を率いて坂本口に出陣します。
これに対し、坂本のやや南にあり琵琶湖西岸方面における重要な拠点であった宇佐山城を守っていた信長の弟の織田信治は、森可成、蒲生茂綱ら4,000の兵で坂本に打って出ます。
しかし9月19日本願寺顕如の要請を受けた坂本里坊、延暦寺の僧兵達も朝倉・浅井連合軍に加わり織田軍は大敗し、織田信治・森可成が打ち取られてしまいます。
宇佐山城の戦い
9月20日続いて宇佐山城を朝倉・浅井連合軍は二手に分かれ包囲します。
城将を失った織田軍であったが、寡兵ながら士気は高く可成の家臣の各務元正、肥田直勝は防戦に務め猛攻を防ぎます。
そのため宇佐山城を攻略することを諦めた朝倉義景・浅井長政はそのまま京都に入ると、醍醐・山科まで進み、周辺を放火している。
蒲生茂綱は休む間もなく激闘を繰り広げた末に壮烈な討死を遂げたが、浅井・朝倉勢が茂綱の首を切り落としたところ、喉から手拭いが転がり落ちてきた。
茂綱は濡れた手拭で口中の渇きを癒しつつ、次々と押し寄せる連合軍の敵兵に対処していたのだった。
毛利元就が出陣の際、山越えのために用意させた水の補給方法が濡れた手拭だったので、当時としてはよく使う水分補給方法だったのかもしれません。
家督は子の蒲生元珍が継いだ。
信長の野望での蒲生茂綱
ゲーム信長の野望での蒲生茂綱のパラメーターを見てみましょう。
統率 47 (1483 位)
武勇 49 (1412 位)
知略 34 (2093 位)
内政 44 (1620 位)
外政 35 (1967 位)
合計 209 (1983 位)
2200人中の順位です。
全体の能力値合計が下位10%なので偏差値でいうと37くらいです。
1,500の兵を率いているので統率力がそこそこ高く設定されても良いですが、このゲーム内では低めです。
まとめ
いかがでした?
ゲームのアイコンでは紫色の布をかじっていますが、これが「濡れた手拭で口中の渇きを癒していた」逸話から来たのでしょう。
武将の逸話を知ると、よりゲームが楽しくなりそうです。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。
参考
蒲生茂綱