武将名鑑【信長の野望 新生】
杉原盛重(すぎはらもりしげ)
杉原盛重(すぎはらもりしげ)
杉原盛重 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
66 (525 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
66 (536 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
50 (1482 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
42 (1701 位) | ||||
合計 | 224 (951 位)2201人中 |
杉原盛重 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
法号・戒名 | 見性院殿大安宗広大居士 | ||||
父 | 杉原匡信 | ||||
母 | 高洲光忠の娘 | ||||
配偶者・正室 | 毛利興元の娘 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
誕生年 | 1532年 | 毛利家臣。はじめ神辺城主・杉原理興に仕えた。理興の死後、吉川元春の推挙により神辺城の城代となる。以後は元春率いる山陰方面軍の先鋒として活躍した。 | |||||||||
死亡年 | 1581年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
中道 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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牢固 | 自部隊の防御上昇 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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激励 | 自部隊の攻撃上昇 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 15 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 22 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 29 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 39 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 死亡 |
杉原盛重が登場する合戦
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江尾城の戦い [毛利元就の石見・出雲平定]
1565年8月5日 ~ 6日
鳥取県日野郡日野町
出雲の国衆が毛利元就に降り、尼子義久の本城である出雲富田城が包囲されるなか、伯耆江尾城主の蜂塚右衛門尉は、義久を支援し続けていた。
永禄8年(1565年)8月1日、吉川元春は備後神辺城主の杉原盛重を総大将とした山田満重ら3000の軍勢で江尾城を攻撃させる。
盛重は8月5日夜より攻撃を始め、翌6日の早朝に総攻撃をかけた。
江尾城は寡兵ながらも抵抗するも、鉄砲を使用する毛利軍の猛攻を前に兵100余が討ち取られ、抗戦することの不利を悟った右衛門尉は、一族とともに自刃し江尾城は落城する。
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八橋城の戦い [毛利元就の石見・出雲平定]
1565年9月3日
鳥取県東伯郡琴浦町八橋
永禄8年(1565年)9月、毛利元就は配下の備中成羽城主の三村家親に命じ、伯耆国側からの補給路を絶つため東伯耆の要衝である伯耆八橋(大江)城に拠り尼子義久を支援し続けている吉田源四郎を攻撃させた。
家親が香川光景の加勢を得て伯耆西部の法勝寺城を拠点に八橋城を攻略すると、吉田源四郎は城兵200人と強行突破で包囲を破り、尼子義久を頼って出雲富田城へ落ちのびる。
10月、家親が拠る法勝寺城を尼子方の福山肥後守が襲撃をしているが、家親の反撃により敗死したという。
後に八橋城には、毛利方の杉原盛重が入った。
その後の吉田源四郎は、杉原盛重の娘を娶るなど尼子氏が滅亡した後の降将としては破格の厚遇を受けており、律儀で忠義の士とも評されている。
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末石城の戦い [尼子勝久の再興戦]
1571年6月21日 ~ 8月18日
鳥取県西伯郡大山町
元亀2年(1571)6月14日、毛利元就が安芸郡山城で卒去したが、高瀬城を守る吉川元春は尼子家の遺臣達の策動もあり出雲を離れることはできなかった。
元春は、6月21日に宍戸隆家・口羽通良・天野隆重ら6000余の軍勢を率いて伯耆へ侵攻し、出雲新山城から抵抗を続けていた山中鹿之助幸盛が守る伯耆末石城を攻撃する。
末石城は300の兵で守るも、毛利方が城砦に沿って櫓を造って弓矢や投石により攻撃を加えたことで、8月18日に落城し、山中鹿之助は捕縛された。
その後、杉原盛重の尾高城で鹿之助は幽閉された。
宍戸隆家と口羽通良の助命嘆願により周防国佐波郡徳地と伯耆国汗入郡大山に各1000貫の所領を与える約束がなされたが、鹿之助はこれを受け入れず、その後に隙をついて脱出している。
鹿之助は「赤痢になった」と偽って何度も厠へ通い、あまりの頻度に付き添っていた監視役が付いてこなくなると、その隙を突いて逃げ出すことに成功したという。
こうして山陰地域から尼子再興軍は一掃され、1回目の再興運動は失敗に終わった。
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鬼ヶ城の戦い [尼子勝久の再興戦]
1576年5月4日
鳥取県八頭郡若桜町若桜
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