武将名鑑【信長の野望 新生】
宍戸隆家(ししどたかいえ)
宍戸隆家(ししどたかいえ)
宍戸隆家 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
54 (1130 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
55 (1060 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
45 (1725 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
52 (1204 位) | ||||
合計 | 206 (1375 位)2201人中 |
宍戸隆家 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
別名 | 元家 | ||||
仮名・通称 | 弥三郎 左衛門尉 | ||||
法号・戒名 | 天叟覚隆 | ||||
父 | 宍戸元家 | ||||
母 | 山内直通の娘 | ||||
配偶者・正室 | 五龍局(毛利元就の娘) | ||||
側室1 | 小河内繁継の姉 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1518年 | 安芸の豪族。毛利元就と争うが、のちに元就の娘・五龍を娶って和睦し、毛利家の一門衆となる。吉川元春と軍事行動をともにし、各地の合戦で活躍した。 | |||||||||
死亡年 | 1592年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
保守 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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攻勢 | 自部隊の攻撃上昇 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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激励 | 自部隊の攻撃上昇 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 29 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 36 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 43 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 53 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 65 |
宍戸隆家が登場する合戦
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赤穴城の戦い [大内義興・義隆の興亡]
1542年4月 ~ 7月27日
島根県飯石郡飯南町
大内義隆 (35)大内晴持
陶晴賢 (21)杉重矩 (44)内藤興盛 (47)毛利元就 (45)宍戸隆家 (24)平賀隆宗 (17)吉川興経 (34)小早川正平 (19)天野興定 (67)熊谷信直 (35)三吉広高 (-16)杉原理興 (34)多賀山通続 (36)山内隆通 (12)本城常光 (29)益田藤兼 (13)WIN
赤穴光清 (49)LOSE
天文9年(1540年)8月、尼子晴久(詮人)は、毛利元就の拠る安芸国郡山城を攻略するため出陣したが、大内義隆から派遣された陶晴賢の率いる援軍もあり敗北してしまった(郡山城の戦い)。
この敗北により、尼子方は多くの将兵を失い、尼子氏に従っていた国人領主らの多くが大内方へ離反した。
天文11年(1542年)正月11日、大内義隆はこの勢いに乗じて、ついに尼子氏を討つため出雲攻めの兵を興す。
義隆は嫡子・大内晴持や陶晴賢・杉重矩・内藤興盛ら直属の1万5000余の軍勢を率いて山口の築山館を出陣する。
安芸国を経由して、安芸国の毛利元就・宍戸隆家・平賀隆宗 ・吉川興経・小早川正平・天野興定・熊谷信直らの軍勢と、備後国の三吉広隆・山名(杉原)理興・多賀山通続・山内隆通らの将兵と合流し、3月には石見国でも本城常光・益田藤兼らの軍勢をも糾合し、総勢4万余の大軍に膨れ上がった。
4月、出雲・石見・ 備後と境を接し、尼子十旗のひとつである赤穴城に攻撃を開始する。
赤穴城は堅固な要害を備えていたことに加えて月山富田城からの援兵を得て兵力も増強させていたため、4万の軍勢の攻撃でも落ちる気配がなかった。
しかし、7月27日、城主の赤穴光清が不運にも流れ矢に当たって討死したため、城兵は光清の妻子の助命を条件として降伏した。
城兵3000余は、尼子氏の本城である出雲富田城に落ちていった。
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山吹城の戦い [毛利元就の石見・出雲平定]
1558年9月3日
島根県大田市大森町
温湯城の救援に失敗した尼子晴久は、2万5千の大軍で毛利元就の属城となっていた石見山吹城を急襲する。
山吹城は大森銀山を守るために築かれた城で、元就はすでに毛利氏に帰服していた刺賀長信・ 高畠遠言を城番としていた。
尼子軍の本城常光は手始めとして山吹城への兵糧道を封鎖し商人達にも山吹城への商品輸送を禁じた。
この状況下の山吹城を救援するため出陣してきた毛利家臣の宍戸隆家率いる7,000の毛利勢は、数で劣るため山間の谷川が流れる狭隘な忍原に陣取った。
しかし尼子軍は急峻な山に登って石を落し、宍戸軍を両側から挟撃し、さらに亀谷城の城兵と呼応して攻撃したため逃げ場を失った宍戸軍は統制が取れなくなり自壊し、死者数百名を出して敗走した(忍原崩れ)。
後援の吉川元春も尼子軍の抵抗に手こずり、山吹城に籠城する長信らも包囲されて孤立。
山吹城内の将兵は飢えに苦しみ、不利を悟った刺賀長信は義弟の湯惟宗を通じて、自身の自害と引き換えに山吹城の城兵は安芸国吉田郡山城の毛利元就の下へ送還することを要求する。
晴久はこれを認め、長信は副将の高畠遠言と共に湯惟宗によって温泉津の海蔵寺に護送され、晴久の派遣した検使の前で切腹した。
この合戦により、晴久は石見銀山と山吹城を奪取した。
晴久はこの戦いに功のあった本城常光を石見最前線である山吹城におく。
また、尼子氏はこの石見銀山を手中に収めることを確実にする為に在地豪族の温泉英永と尼子氏の直臣である多胡辰敬・牛尾久清との連絡網を構築する。
その後、毛利氏は石見銀山の奪取を何度か企てるも敗北し、晴久の存命中にこれを降す事は出来なかった。
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末石城の戦い [尼子勝久の再興戦]
1571年6月21日 ~ 8月18日
鳥取県西伯郡大山町
元亀2年(1571)6月14日、毛利元就が安芸郡山城で卒去したが、高瀬城を守る吉川元春は尼子家の遺臣達の策動もあり出雲を離れることはできなかった。
元春は、6月21日に宍戸隆家・口羽通良・天野隆重ら6000余の軍勢を率いて伯耆へ侵攻し、出雲新山城から抵抗を続けていた山中鹿之助幸盛が守る伯耆末石城を攻撃する。
末石城は300の兵で守るも、毛利方が城砦に沿って櫓を造って弓矢や投石により攻撃を加えたことで、8月18日に落城し、山中鹿之助は捕縛された。
その後、杉原盛重の尾高城で鹿之助は幽閉された。
宍戸隆家と口羽通良の助命嘆願により周防国佐波郡徳地と伯耆国汗入郡大山に各1000貫の所領を与える約束がなされたが、鹿之助はこれを受け入れず、その後に隙をついて脱出している。
鹿之助は「赤痢になった」と偽って何度も厠へ通い、あまりの頻度に付き添っていた監視役が付いてこなくなると、その隙を突いて逃げ出すことに成功したという。
こうして山陰地域から尼子再興軍は一掃され、1回目の再興運動は失敗に終わった。
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鬼身城の戦い [備中兵乱]
1575年1月23日 ~ 29日
岡山県総社市山田
荒平山城を包囲しながら、毛利輝元方の小早川隆景は、天正3年(1575年)正月23日、毛利氏に通じた三村一族の成羽城主の三村親成らを先導にして、三村元親の実弟で上田氏の養子となっていた上田実親が居る鬼身城を攻撃する。
鬼身城は、備中南部を扼す要衝であった。
毛利氏の大軍に包囲された上田実親は、城兵の命と引き替えに同月29日に20歳という若さで自刃した。
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