尼子勝久の再興戦
尼子勝久の再興戦
1569年7月
山中鹿之介と吉川元春
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月山富田城の戦い(がっさんとだじょうのたたかい)
1569年7月 ~ 1570年2月14日
島根県安来市広瀬町富田
山名鹿之助像
永禄12年(1569年)7月、出雲に侵入した尼子勝久の6000の軍は、かつて尼子氏の本城であった月山富田城を攻囲した。
尼子方に投降する城兵もあらわれるなか、わずか300の兵で富田城を守る城将の天野隆重・野村士悦らは、毛利元就に後詰を要請する。
これに対し元就は毛利軍の主力が九州から撤退してくるのを待つと、永禄13年(1570年)正月6日に総大将に毛利輝元をおき吉川元春・小早川隆景・児玉就久ら2万6000の軍勢で出雲に向かわせた。
天野隆重は寡兵で籠城している際に、月山富田城を明け渡して降伏すると見せかけ、やってきた尼子再興軍に奇襲をかけ秋上宗信らを撃退したり、浄安寺に伏兵とした入った山中鹿之助らに対して鉄砲や矢を猛射し勝利していいる。
毛利勢の援軍が到着し、2月14日に布部山の戦いで尼子勢を破ると、富田城の包囲は解かれた。
布部山の戦い(ふべやまのたたかい)
1570年2月14日
島根県安来市広瀬町布部
牛尾城の戦い(うしおじょうのたたかい)
1570年4月17日
島根県雲南市大東町
布部山の戦いで尼子勢を破った毛利輝元は、吉川元春らとともに出雲牛尾(三笠)城を攻撃した。
城主の牛尾幸信は、永禄9年(1566年)の富田城の戦いで毛利氏に降伏したにもかかわらず、尼子勝久の出雲侵入に呼応して尼子再興軍に加わり、布部山の戦いにも参陣していたためである。
吉川元春の家臣・田中経忠と香川春綱が攻め寄り、幸信は一族ら160余とともに討死し、牛尾城は落城した。
生き残った城兵のほとんどは、見せしめのために殺されたという。
その後牛尾城は、毛利家に従っていた牛尾豊前守が美作・升形城から正式に移った。
高瀬城の戦い(たかせじょうのたたかい)
1570年5月4日 ~ 1571年3月19日
島根県簸川郡斐川町神庭
末石城の戦い(すえいしじょうのたたかい)
1571年6月21日 ~ 8月18日
鳥取県西伯郡大山町
元亀2年(1571)6月14日、毛利元就が安芸郡山城で卒去したが、高瀬城を守る吉川元春は尼子家の遺臣達の策動もあり出雲を離れることはできなかった。
元春は、6月21日に宍戸隆家・口羽通良・天野隆重ら6000余の軍勢を率いて伯耆へ侵攻し、出雲新山城から抵抗を続けていた山中鹿之助幸盛が守る伯耆末石城を攻撃する。
末石城は300の兵で守るも、毛利方が城砦に沿って櫓を造って弓矢や投石により攻撃を加えたことで、8月18日に落城し、山中鹿之助は捕縛された。
その後、杉原盛重の尾高城で鹿之助は幽閉された。
宍戸隆家と口羽通良の助命嘆願により周防国佐波郡徳地と伯耆国汗入郡大山に各1000貫の所領を与える約束がなされたが、鹿之助はこれを受け入れず、その後に隙をついて脱出している。
鹿之助は「赤痢になった」と偽って何度も厠へ通い、あまりの頻度に付き添っていた監視役が付いてこなくなると、その隙を突いて逃げ出すことに成功したという。
こうして山陰地域から尼子再興軍は一掃され、1回目の再興運動は失敗に終わった。
鹿之助は逃亡後、京都で主君の尼子勝久と再会し、織田信長に支援を要請することになる。
新山城の戦い(しんやまじょうのたたかい)
1571年8月21日
島根県松江市法吉町
鳥取城の戦い(とっとりじょうのたたかい)
1573年8月1日
鳥取県鳥取市東町
鳥取城と鳥取市街
鳥取城の戦い(とっとりじょうのたたかい)
1573年10月24日
鳥取県鳥取市東町
鳥取城の戦い(とっとりじょうのたたかい)
1574年9月21日 ~ 22日
鳥取県鳥取市東町
鬼ヶ城の戦い(おにがじょうのたたかい)
1576年5月4日
鳥取県八頭郡若桜町若桜
上月城の戦い(こうづきじょうのたたかい)
1578年4月18日 ~ 7月5日
兵庫県佐用郡佐用町上月
この合戦に登場する武将
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尼子勝久 (あまごかつひさ)
誠久の子。山中幸盛らに擁立され、尼子家の再興を目指す。織田信長を頼り、出雲入国を試みるが失敗し、のちに播磨上月城の戦いで毛利軍に敗れ、自害した。
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山中鹿之介 (やまなかしかのすけ)
尼子家臣。三日月に対し「我に七難八苦を…」と願ったという。尼子勝久を擁して主家再興を企むが、播磨上月城で毛利軍に敗れ、安芸への護送中に殺された。
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天野隆重 (あまのたかしげ)
大内家臣。主家滅亡後は毛利家に属す。尼子家滅亡後、出雲月山富田城代となり山中幸盛の軍を撃退した。のちに元就の五男・元秋を補佐して出雲を支配した。
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毛利輝元 (もうりてるもと)
毛利隆元の嫡男。祖父・元就の死後、毛利家を継ぎ、秀吉の下では五大老の1人となる。関ヶ原合戦では西軍総大将の座に就くが、戦場に出ることはなかった。
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吉川元春 (きっかわもとはる)
毛利元就の次男。安芸の豪族・吉川家を継ぎ、山陰地方の攻略にあたる。不敗を誇った家中随一の猛将である一方、陣中で「太平記」40巻を写本したという。
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小早川隆景 (こばやかわたかかげ)
毛利元就の三男。安芸の豪族・小早川家を継ぎ、山陽地方の攻略にあたる。本能寺の変後は毛利家の存続をはかって豊臣秀吉に接近し、五大老の1人となった。
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宍戸隆家 (ししどたかいえ)
安芸の豪族。毛利元就と争うが、のちに元就の娘・五龍を娶って和睦し、毛利家の一門衆となる。吉川元春と軍事行動をともにし、各地の合戦で活躍した。
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口羽通良 (くちばみちよし)
毛利家臣。志道広良の次男。吉川元春を補佐して山陰方面の経略を行う。主君・元就の死後、四人衆の1人となり当主・輝元を補佐して主家の国政に参画した。
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杉原盛重 (すぎはらもりしげ)
毛利家臣。はじめ神辺城主・杉原理興に仕えた。理興の死後、吉川元春の推挙により神辺城の城代となる。以後は元春率いる山陰方面軍の先鋒として活躍した。
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山名豊国 (やまなとよくに)
因幡守護。鳥取城主。豊定の三男。武田高信を討ち居城を奪回する。羽柴秀吉に属すが、毛利家に通じた家臣たちに追放された。のち、秀吉の御咄衆を務めた。
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吉川元長 (きっかわもとなが)
元春の長男。父に劣らぬ武勇を誇り、豊臣秀吉の九州征伐に従軍した際も、常に勝利を収めたという。父の隠居後、家督を継ぐが、父の死後間もなく病死した。
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宇喜多忠家 (うきたただいえ)
宇喜多家臣。興家の子。兄・直家の創業に大いに貢献した。兄の死後は甥・秀家の後見人となる。朝鮮派兵の際は、豊臣軍総督を務める秀家に従って渡海した。
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豊臣秀吉 (とよとみひでよし)
戦国一の出世頭。織田信長に仕え、傑出した人望と知略を武器に活躍し、頭角を現す。本能寺の変後、明智光秀、柴田勝家らを次々と倒し、天下に覇を唱えた。