武将名鑑【信長の野望 新生(パワーアップキット)】
稲葉一鉄(いなばいってつ)
稲葉一鉄(いなばいってつ)
稲葉一鉄 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
77 (197 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
71 (362 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
78 (197 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
71 (374 位) | ||||
合計 | 297 (154 位)2201人中 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1515年 | 斎藤家臣。美濃三人衆の1人。主家滅亡後、織田家に仕える。姉川合戦では浅井軍に横槍を入れ、味方を勝利に導いた。頑固な性格から「一徹」の語源になる。 | |||||||||
死亡年 | 1588年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
革新 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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自衛 | 自勢力内では自部隊の防御上昇 | ||||||||||
反攻 | 城が強攻されたときに攻城部隊へのダメージ増加 | ||||||||||
数寄 | 家宝をまれに入手 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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罵声 | 敵部隊の防御低下 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
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兵役増強 | 最大兵力増加 兵糧収入減少 | ||||||||||
奉行
準備中 |
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兵糧奉行 | 小荷駄隊配備の維持費削減 |
シナリオ | |||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | 城 | ||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 32 | 大垣城 | ||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 39 | 大垣城 | ||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 46 | 大垣城 | ||||||||
1567年8月 | 天下布武 | 53 | 大垣城 | ||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 56 | 大垣城 | ||||||||
1572年12月 | 三方ヶ原の戦い | 58 | 大垣城 | ||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 68 | 大垣城 | ||||||||
1591年10月 | 天下無事ならず | - | |||||||||
1600年7月 | 関ヶ原の戦い | 死亡 | |||||||||
1614年8月 | 大坂の陣 | 死亡 |
稲葉一鉄が登場する合戦
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稲葉山城の戦い [織田信長の美濃平定]
1567年8月1日 ~ 15日
岐阜県岐阜市大宮町
稲葉山城(岐阜城)
-
和田山城の戦い [織田信長の上洛戦]
1568年9月12日
滋賀県東近江市五個荘和田町
織田信長は、箕作城と同時に六角氏側の主力の一つである和田山城も稲葉良通(一鉄)が率いる第1隊に攻撃させていた。
しかし箕作城の落城を知った和田山城を守る田中治部大輔らは、戦わずに夜のうちに逃亡してしまった。
たった1日で箕作城と和田山城が共に落ちたことに落胆した六角承禎・義治父子は、9月12日に夜陰に乗じて居城の観音寺城を捨てて甲賀に逃れた。
翌13日、信長が観音寺城に入城すると六角方の18の支城も1つを除き開城し、六角氏の家臣は信長に降伏した。
この戦いの織田軍の損害は1500人ほどだと『フロイス日本史』に記載されている。
ちなみに抵抗を続けていた六角氏の城は蒲生賢秀が守る日野城であった。
結果的に賢秀の妹を妻としていた織田家の部将・神戸具盛の説得で、賢秀は信長に人質を差出して忠節を誓った。
この人質が蒲生氏郷である。
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大河内城の戦い [織田信長の伊勢平定]
1569年8月26日 ~ 10月3日
三重県松阪市大阿坂町
織田信長 (35)森可成 (46)坂井政尚
蜂屋頼隆 (35)佐久間信盛 (42)豊臣秀吉 (32)氏家卜全 (56)安藤守就 (46)織田信包 (26)滝川一益 (44)丹羽長秀 (34)稲葉一鉄 (54)池田恒興 (33)織田信雄 (11)WIN
1569年(永禄12年)8月20日、上洛戦を終えて美濃に戻っていた信長は、伊勢攻略のため総勢7万といわれる大軍で岐阜を出陣。
23日、事前に送り込んだ滝川一益が寝返らせすことに成功した木造城に着陣。北畠軍は天険の要害である大河内城やその支城に籠城しており、大河内城の本軍は約8,000だったと言われている。
織田軍の木下秀吉は史上の阿坂城を落城させたり、滝川一益は多芸城を焼き討ちにしたりと織田軍が優勢となるも、要害である大河内城はなかなか落とせなかった。
そこで兵糧攻めを行い、北畠家は降伏。
という北畠家に不利な条件で和睦した。
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太田口の戦い [織田信長の長島一向一揆鎮圧]
1571年5月16日
岐阜県海津市南濃町太田
6月4日、信長は伊勢の長島(三重県桑名市)で起きていた一向一揆(伊勢長島一向一揆)を5万の兵を率いて鎮圧するために乗り出します。
織田軍は津島(愛知県津島市)に入り、本陣を構えました。そして、三方向から攻め寄せ、中筋口(桑名市の大鳥居城の辺り)から佐久間信盛、浅井新八、和田新介、中嶋豊後、山田三左衛門、長谷川丹波が進軍します。
多芸山(岐阜県養老町と大垣市上石津町にまたがる山)から大田口(岐阜県海津市南濃町)に向けては、柴田勝家、氏家卜全、稲葉一鉄、市橋長利、不破光治、伊賀平左衛門、塚本小大膳、丸毛長照、飯沼勘平が進軍しました。
8日、大田口の周辺に火を放っていた織田軍をめがけ、願証寺の一揆衆が弓と鉄砲で襲いかかります。
山中の細道で身動きがとれなくなった織田の部隊は乱れ、殿軍の柴田勝家が一揆衆と奮戦するも負傷し退却します。氏家卜全も必死に抵抗したが、一揆衆に囲まれて氏家の家臣もろとも全滅。大田口の合戦で織田軍は惨敗してしまったのである。
一揆衆は、小川村と志村(どちらも滋賀県東近江市)に引き返していきました。
信長の侵攻を防いだ4ヶ月後の元亀2年(1571年)6月6日、願証寺証意は35歳で急逝する。証意の急死を受けて跡を11歳の嫡男・願証寺顕忍が引き継ぐ事となった。
稲葉一鉄が登場する記事一覧
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