織田信長の長島一向一揆鎮圧
織田信長の長島一向一揆鎮圧
1570年11月
佐久間信盛と願証寺証意
目次[非表示]
小木江城の戦い(こきえじょうのたたかい)
1570年11月21日
愛知県愛西市森川町
元亀元年(1570年)9月に本願寺と織田信長が対立し石山合戦が始まった際、主戦派として下間頼成と連署して近隣国人に蜂起を煽る檄文を飛ばし、長島でも門徒勢が蜂起します。
長島城を落した門徒勢は11月16日、織田信興(信長の弟)が守る古木江城を襲撃しました。
信興は信長や桑名城の滝川一益に援軍を要請したが、信長は浅井長政・朝倉義景の軍勢と延暦寺の僧兵によって大津に足止めされており(志賀の陣)、一向宗に攻められて籠城していた一益も援軍を出すことができなかった。
6日後の11月21日に古木江城は落城、『信長公記』によれば信興は櫓に上って自害したとされるが、地元では城外で討たれたと伝わっている。
この一件を機に信長の一向宗への憎悪はより強まり、門徒約2万人が焼き殺されたとされる1574年(天正2年)の長島焼き尽くしにつながります。
太田口の戦い(おおたぐちのたたかい)
1571年5月16日
岐阜県海津市南濃町太田
6月4日、信長は伊勢の長島(三重県桑名市)で起きていた一向一揆(伊勢長島一向一揆)を5万の兵を率いて鎮圧するために乗り出します。
織田軍は津島(愛知県津島市)に入り、本陣を構えました。
そして、三方向から攻め寄せ、中筋口(桑名市の大鳥居城の辺り)から佐久間信盛、浅井新八、和田新介、中嶋豊後、山田三左衛門、長谷川丹波が進軍します。
多芸山(岐阜県養老町と大垣市上石津町にまたがる山)から大田口(岐阜県海津市南濃町)に向けては、柴田勝家、氏家卜全、稲葉一鉄、市橋長利、不破光治、伊賀平左衛門、塚本小大膳、丸毛長照、飯沼勘平が進軍しました。
8日、大田口の周辺に火を放っていた織田軍をめがけ、願証寺の一揆衆が弓と鉄砲で襲いかかります。
山中の細道で身動きがとれなくなった織田の部隊は乱れ、殿軍の柴田勝家が一揆衆と奮戦するも負傷し退却します。
氏家卜全も必死に抵抗したが、一揆衆に囲まれて氏家の家臣もろとも全滅。大田口の合戦で織田軍は惨敗してしまったのである。
一揆衆は、小川村と志村(どちらも滋賀県東近江市)に引き返していきました。
信長の侵攻を防いだ4ヶ月後の元亀2年(1571年)6月6日、願証寺証意は35歳で急逝する。証意の急死を受けて跡を11歳の嫡男・願証寺顕忍が引き継ぐ事となった。
長島の戦い(ながしまのたたかい)
1574年7月13日 ~ 9月29日
三重県桑名市長島町
この合戦に登場する武将
-
願証寺証意 (がんしょうじしょうい)
長島願証寺の僧。父・証恵を継いで門跡となる。本願寺顕如の檄に呼応し、織田信長と対立。門徒衆を率いて壮絶な死闘を繰り広げる中、謎の急死を遂げる。
-
織田信長 (おだのぶなが)
信秀の嫡男。今川義元を桶狭間で破る。以後、天下布武を標榜して敵対勢力を次々と滅ぼした。天下統一を目前にして、明智光秀の謀叛に遭い本能寺に散った。
-
柴田勝家 (しばたかついえ)
織田家臣。「かかれ柴田」の異名をとった猛将。北陸方面軍の総大将を務めた。本能寺の変後、羽柴秀吉と争い賤ヶ岳合戦で敗れ、居城・北庄城で自害した。
-
氏家卜全 (うじいえぼくぜん)
斎藤家臣。美濃三人衆の1人。主家滅亡後、織田家に仕える。伊勢平定戦で功を立てた。長島一向一揆との戦いで織田軍が敗れた際、殿軍を務め、戦死した。
-
佐久間信盛 (さくまのぶもり)
織田家臣。各地の合戦で活躍し「のき佐久間」の異名をとる。石山本願寺攻めの総大将を務めるが、本願寺の退去後、怠慢不手際の叱責を受け、追放された。
-
稲葉一鉄 (いなばいってつ)
斎藤家臣。美濃三人衆の1人。主家滅亡後、織田家に仕える。姉川合戦では浅井軍に横槍を入れ、味方を勝利に導いた。頑固な性格から「一徹」の語源になる。
-
不破光治 (ふわみつはる)
斎藤家臣。主家滅亡後は織田家に属す。主君・信長の馬廻を務め、各地で活躍した。のちに柴田勝家の目付として越前に赴く。本能寺の変後は勝家に属した。
-
織田信広 (おだのぶひろ)
織田家臣。信秀の長男。信長の庶兄。小豆坂の戦いでは先陣を務める。のちに謀反を画策するも信長に許され、心を入れ替えて働くが、伊勢長島攻めで戦死。
-
滝川一益 (たきがわかずます)
織田家臣。各地の合戦で活躍し「進むも退くも滝川」と称された。甲斐平定後、関東管領となる。本能寺の変後、北条軍と戦って惨敗し、以後は勢威を失った。