織田信長の伊勢平定
織田信長の伊勢平定
1567年8月
滝川一益と北畠具教
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楠城の戦い(くすじょうのたたかい)
1567年8月
三重県四日市市楠町
高岡城の戦い(たかおかじょうのたたかい)
1567年8月
三重県鈴鹿市高岡町
永禄10年(1567年)8月、楠城を攻略した織田信長は、伊勢神戸城主・神戸具盛の属城で楠城からは西側へおよそ1キロほどの場所に位置する高岡城を2万の軍勢で攻撃した。
このとき信長は城下を焼き払って高岡城を裸城にしたうえで攻撃を仕掛けたが、具盛の家老で高岡城主の山路弾正がよく守り戦線が膠着する。
合戦当時信長は、稲葉山城も包囲し美濃制圧の最終段階でもあった。
それを知っていた山路弾正は、美濃三人衆の安藤守就・稲葉一鉄・氏家卜全らに「信長の背後を討つ絶好の機会である」という密使を送り、信長方へ「美濃三人衆が寝返り武田信玄と結んだ」と流言した。
信長は美濃三人衆の寝返りを恐れ、全軍を尾張に撤退させる。
翌永禄11年(1568年)2月、信長は再び伊勢に侵攻して高岡城を攻めているが、このときも高岡城を攻略することはできなかった。
神戸城の戦い(かんべじょうのたたかい)
1568年2月
三重県鈴鹿市神戸
永禄10年(1567年)の伊勢侵攻に失敗した織田信長は、翌永禄11年(1568年)2月、再び4万の軍勢で北伊勢に侵入して神戸具盛が守る神戸城を包囲する。
不利を悟った具盛は、一人娘に信長の三男である三七(織田信孝)を婿養子として迎えるという条件で和睦した。
以後三七は神戸三七郎と名乗っている。
養子入りに際しては、乳兄弟の幸田彦右衛門が傳役として付けられ、信長家臣からは岡本太郎右衛門・坂仙斎・三宅権右衛門・坂口縫殿助・山下三右衛門・末松吉左衛門らが信孝付きとして付けられた。
神戸具盛は養子となった三七郎を冷遇したため信長の勘気にふれて、元亀2年(1571年)に信長に命じられた蒲生賢秀により近江日野城に幽閉させられると、三七郎に神戸氏の家督を譲るように強制された。
神戸氏家老の高岡城主である山路弾正らはこれに激しく抗議したが、謀反の疑いをかけられ自害に追い込まれた。
その後、元亀3年(1572年)に織田信孝が岐阜城において元服すると、信孝が神戸家の家督を継いだ。
安濃城の戦い(あのうじょうのたたかい)
1568年2月
三重県津市安濃町安濃
神戸城の神戸具盛を降伏させた織田信長は、永禄11年(1568年)2月さらに南下して中勢地域の長野氏を滅ぼそうとした。
そのためにまずは、長野氏の別家である細野氏を滅ぼすことを企て、まず織田氏の宿老であった滝川一益に細野藤敦が守る安濃城を攻めさせた。
細野家中は織田家への対応のため分裂していく。
城主の細野藤敦は、信長との和睦を望んでいた藤敦の弟の分部光嘉らの反対を押し切って、伊勢国最大級の城郭とも呼ばれる安濃城に籠って防戦しようとした。
光嘉や川北藤元らは織田家に内応して信長の弟の織田信包に長野氏の跡を継がせるべく画策し、藤敦が織田家に寝返ったと讒言して、長野具藤に藤敦を攻めさせた。
藤敦はやむなくこれを撃退し、具藤を追放して織田家に降伏することとなった。
光嘉が、 信長の弟の信良(信包)を長野氏の家督に迎えるという条件で信長に降伏すると、安濃城の藤敦も抗戦する意味がなくなり信長に降った。
木造城の戦い(こつくりじょうのたたかい)
1569年5月12日 ~ 8月23日
三重県津市木造町
木造城は伊勢国司北畠氏領域の最北端に位置する木造氏の居城である。
永禄12年(1569年)5月、織田信長は伊勢攻略のため、先鋒部隊として滝川一益を送り込みます。
一益は木造家臣の源浄院(滝川雄利)と柘植三郎左衛門保重を抱き込み、木造城主の木造具政を織田方に寝返らせることに成功。
木造具政は北畠家当主である具教の実弟で、木造家の養子となり継いでいたが、兄弟仲が悪く織田方になびいてしまった。
これに対して北畠具教は出兵し、雲出川原にて一戦に及び木造城を包囲。
しかし城は落ちず、八月になると織田信長率いる十万の大軍が中伊勢に進撃してきたため、北畠勢は退却し大河内城に籠った。
阿坂城の戦い(あざかじょうのたたかい)
1569年8月26日
三重県松阪市大阿坂町
大河内城の戦い(おかわちじょうのたたかい)
1569年8月26日 ~ 10月3日
三重県松阪市大阿坂町
坂井政尚
WIN
1569年(永禄12年)8月20日、上洛戦を終えて美濃に戻っていた信長は、伊勢攻略のため総勢7万といわれる大軍で岐阜を出陣。
23日、事前に送り込んだ滝川一益が寝返らせすことに成功した木造城に着陣。
北畠軍は天険の要害である大河内城やその支城に籠城しており、大河内城の本軍は約8,000だったと言われている。
織田軍の木下秀吉は史上の阿坂城を落城させたり、滝川一益は多芸城を焼き討ちにしたりと織田軍が優勢となるも、要害である大河内城はなかなか落とせなかった。
そこで兵糧攻めを行い、北畠家は降伏。
という北畠家に不利な条件で和睦した。
三瀬館の変(みせやかたのへん)
1576年11月25日
三重県多気郡大台町上三瀬
北畠具教とその側近達は信長に心服しておらず、元亀4年(1572年)3月に具教は西上作戦の途上であった武田信玄の陣に鳥屋尾満栄を遣わせ、信玄上洛の際には船を出して協力するという密約を結んでいた。
また、信長に敵対する紀伊熊野勢に蜂起を勧めていたとされる。
それを知った信長・信意親子は、天正4年(1576年)11月、北畠一族の抹殺を画策。
信長は藤方朝成・長野左京亮・奥山知忠の3名を呼び出し領地の朱印を与えて誓紙を書かせ、具教殺害を指示した。
この内、奥山知忠は病と称して出家してしまい直前で計画から外れたが、長野左京進は参加し、また藤方朝成も直接の参加は避けたものの結局は家臣の軽野左京進を参加させた。
11月25日、滝川雄利・柘植保重・軽野左京進の3名の軍勢が北畠具教のいる三瀬御所を包囲。
内通していた具教の近習である佐々木四郎左衛門が長野ら3人を通し、具教に面通りさせると長野がいきなり槍で具教を突き、具教はこれを躱して太刀で反撃しようとしたが佐々木に細工された太刀は抜くことが出来ずそのまま討ち果たされた。
しかし一説には具教は19人を斬り殺し、100人に傷を負わせたという。
その後、長野左京亮によって討ち果たされた。享年49。
その後、三瀬御所に討ち入った軍勢によって具教の四男・徳松丸、五男・亀松丸らや北畠家臣14人の武将も殺害され、北の方(具教正室)らも走って逃げようとするなど御所内は混乱状態となった。
これにより戦国大名としての北畠氏は完全に織田氏に乗っ取られた。
森城の戦い(もりじょうのたたかい)
1577年
三重県松阪市飯高町森
北畠信意
WIN
北畠具親
LOSE
五箇篠山城の戦い(ごかささやまじょうのたたかい)
1583年1月1日 ~ 2日
三重県多気郡多気町古江
津川義冬
WIN
北畠具親
LOSE
この合戦に登場する武将
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織田信長 (おだのぶなが)
信秀の嫡男。今川義元を桶狭間で破る。以後、天下布武を標榜して敵対勢力を次々と滅ぼした。天下統一を目前にして、明智光秀の謀叛に遭い本能寺に散った。
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織田信孝 (おだのぶたか)
信長の三男。伊勢の豪族・神戸具盛の養子となり、家督を継ぐ。本能寺の変後、柴田勝家と結んで羽柴秀吉に対抗するが敗れ、秀吉の命により自害させられた。
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蒲生賢秀 (がもうかたひで)
六角家臣。定秀の子。織田信長上洛の際は信長の三男・信孝が妹婿・神戸具盛の養子となった関係から織田家に属す。本能寺の変の際は信長の妻子を保護した。
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神戸具盛 (かんべとももり)
伊勢の豪族。神戸城主。織田信孝(信長の子)を養子とする。のちに信長により日野城に幽閉されるが、信孝が四国へ出陣する際、許されて留守居役を務めた。
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細野藤敦 (ほそのふじあつ)
長野家臣。藤光の嫡男。織田信長の伊勢侵攻軍に対して徹底抗戦を主張、安濃城に籠城して抗戦を続けたが、のちに和睦した。本能寺の変後は豊臣家に仕えた。
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北畠具教 (きたばたけとものり)
伊勢国司・北畠家8代当主。晴具の子。織田信長に敗れ、信長の次男・信雄を養子とするが、のちに殺された。塚原卜伝より秘伝「一の太刀」を授けられた。
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木造具政 (こづくりともまさ)
北畠家臣。北畠晴具の子。木造家を継いだ。兄・具教に背いて織田信長の軍に降る。その後は織田信雄に属し、小牧長久手合戦では蒲生氏郷軍と戦うが敗れた。
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滝川一益 (たきがわかずます)
織田家臣。各地の合戦で活躍し「進むも退くも滝川」と称された。甲斐平定後、関東管領となる。本能寺の変後、北条軍と戦って惨敗し、以後は勢威を失った。
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森可成 (もりよしなり)
織田家臣。尾張統一戦や桶狭間合戦などで活躍した。宇佐山城主を務め、琵琶湖の南岸を固める。のちに浅井・朝倉連合軍の攻撃を受け、衆寡敵せず戦死した。
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蜂屋頼隆 (はちやよりたか)
織田家臣。黒母衣衆の1人。斎藤家を経て織田信長に仕える。以後は遊軍を率いて各地で活躍した。本能寺の変後は豊臣秀吉に属し、越前敦賀5万石を領した。
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佐久間信盛 (さくまのぶもり)
織田家臣。各地の合戦で活躍し「のき佐久間」の異名をとる。石山本願寺攻めの総大将を務めるが、本願寺の退去後、怠慢不手際の叱責を受け、追放された。
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豊臣秀吉 (とよとみひでよし)
戦国一の出世頭。織田信長に仕え、傑出した人望と知略を武器に活躍し、頭角を現す。本能寺の変後、明智光秀、柴田勝家らを次々と倒し、天下に覇を唱えた。
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氏家卜全 (うじいえぼくぜん)
斎藤家臣。美濃三人衆の1人。主家滅亡後、織田家に仕える。伊勢平定戦で功を立てた。長島一向一揆との戦いで織田軍が敗れた際、殿軍を務め、戦死した。
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安藤守就 (あんどうもりなり)
斎藤家臣。美濃三人衆の1人。主家滅亡後は織田信長に属すが、のちに追放された。本能寺の変に乗じて旧領回復の兵を挙げるが、稲葉一鉄と戦って敗死した。
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織田信包 (おだのぶかね)
信秀の四男。越前攻めや石山本願寺攻めに参戦した。本能寺の変後は豊臣秀吉に仕え、秀吉の子・秀頼の傅役を務めた。娘は秀吉の側室となり、寵愛された。
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丹羽長秀 (にわながひで)
織田家臣。「米五郎左」の異名をとる。安土城の普請奉行を務めるなど、行政面で活躍した。本能寺の変後は羽柴秀吉に属し、越前北庄120万石を領した。
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稲葉一鉄 (いなばいってつ)
斎藤家臣。美濃三人衆の1人。主家滅亡後、織田家に仕える。姉川合戦では浅井軍に横槍を入れ、味方を勝利に導いた。頑固な性格から「一徹」の語源になる。
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池田恒興 (いけだつねおき)
織田家臣。信長の乳兄弟。姉川合戦などで活躍した。本能寺の変後は、織田家四宿老の1人となる。羽柴秀吉に味方して小牧長久手の合戦に出陣し、戦死した。
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織田信雄 (おだのぶかつ)
信長の次男。伊勢国司・北畠家の養子となり、家督を継ぐ。本能寺の変後は豊臣家に従属した。小田原征伐後、徳川家康の旧領への転封を拒否し、改易された。
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北畠具房 (きたばたけともふさ)
伊勢国司・北畠家9代当主。具教の子。父が織田信雄に殺されたあと、滝川一益に預けられ安濃郡河内に3年間幽閉された。のち解放されるが、間もなく病死。
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長野具藤 (ながのともふじ)
長野工藤家16代当主。北畠具教の子。北畠家と長野家の和睦の際、長野家の養子となる。父とともに織田信長の伊勢侵攻軍と戦う。のち織田信雄に殺された。