武将名鑑【信長の野望 新生】
朝比奈泰朝(あさひなやすとも)
朝比奈泰朝(あさひなやすとも)
朝比奈泰朝 の能力値 | |||||
---|---|---|---|---|---|
統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
74 (264 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
68 (452 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
58 (1021 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
38 (1859 位) | ||||
合計 | 238 (694 位)2201人中 |
朝比奈泰朝 の基礎データ | |||||
---|---|---|---|---|---|
性別 | 男 | ||||
父 | 朝比奈泰能 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
誕生年 | 1530年 | 今川家臣。泰能の子。駿河を追われた主君・氏真を居城・掛川城に迎え入れ、徳川軍と戦う。5カ月の籠城戦の末に開城し、氏真とともに相模に落ち延びた。 | |||||||||
死亡年 | 1582年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
中道 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
|||||||||||
牢固 | 自部隊の防御上昇 | ||||||||||
差配 | 合戦で積極的に味方部隊を支援 | ||||||||||
自衛 | 自勢力内では自部隊の防御上昇 | ||||||||||
差配 | 合戦で積極的に味方部隊を支援 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
|||||||||||
威圧 | 敵部隊の攻撃低下 |
シナリオ | |||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 17 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 24 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 31 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 41 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 53 |
朝比奈泰朝が登場する合戦
-
桶狭間の戦い [松平氏と織田氏・今川氏]
1560年5月19日
愛知県名古屋市緑区
桶狭間古戦場
-
今川館の戦い [武田信玄の駿河平定]
1568年12月13日
静岡県静岡市葵区駿府公園
永禄11年(1568年)12月13日、薩埵峠の戦いで今川勢を破った武田信玄は、勢いに乗じて駿河府中に侵入する。
今川氏真は、北条氏康の援軍を待つため今川館を出て背後に控える賎機山城に籠城しようとした。
しかし、賤機山城はすでに武田軍の先鋒であった馬場信春に押さえられ、今川軍の退路は断垂れた。
今川氏真の計画は破綻し、やむなく重臣の朝比奈泰朝を頼って遠江懸川(掛川)に落ちのびた。
この時、北条氏康の娘であった氏真の正室・早川殿は乗り物を得られず徒歩で駿府から脱出したという。
この報を受けた氏康は激しく憤慨し、後に越後の上杉謙信に対して「この耻辱そそぎがたく候」と書状を送っている。
今川館を接収した馬場信春は、今川氏代々の貴重な宝物があるために火をかけてはならないと命じられていたが財宝を奪ったという汚名を着せられないよう、駿府の町と今川館をすべて焼き払ったという。
武田氏の駿河侵攻で武田方に与する今川旧臣が居た一方、徳川方に与した者も居た。
井伊谷三人衆も、遠江侵攻前に徳川方の交渉で引き入れており、仮に武田方が介入してきても見放さないという起請文を同12日に家康は与えている。
こうして同13日に家康は三河から遠江に侵攻を開始する。
-
懸川城の戦い [武田信玄の駿河平定]
1568年12月27日 ~ 1569年5月17日
静岡県掛川市城下
掛川城
永禄11年(1568年)12月27日、徳川勢が遠江に攻め寄せ今川氏真が保護されていた掛川城の包囲を始める。
はじめのうちは大きな動きがなかったが、翌年永禄12年(1569年)の1月中旬に本格的な包囲体制ができたため、大きな戦いが繰り広げられていった。
3月5日には家康自らが大手南町口・西町口・松尾曲輪・天王小路などを攻めたが、掛川城は堅城であるうえに朝比奈泰朝がよく守ったため攻め落とせず、また、今川氏の同盟勢力である相模国北条氏も海路から援軍を送ってきたため、長期戦となった。
家康は今川家家臣の調略を試みるが、ここまで残っている朝比奈氏は揺れず、また家康は武田軍の動向にも気をつける必要があった。
信玄と家康は大井川を境として東の駿河を武田軍が、西の遠江を徳川軍が手柄次第に領有するとの約束をしていたとされているが、信玄は信濃国の伊那郡より秋山信友を大将とする別働隊を派遣していた時期があり、この軍勢が遠江国をうかがう動きを見せたため、上信感を抱いていたのである。
このような状況下で、『松平記』『北条記』によると3月8日に家康から和睦を申し入れています。
家康は、かつては自分も今川氏に取り立てられた身であり、自分が遠江を取らなければ必ず信玄が取ることになるであろうから、それよりは家康に下されて和談とすれば、北条氏と申し合わせて信玄を逐い駿府を氏真に返そう、と説いたという。
この協議には北条氏も参画し、4月末頃までにはほぼ合意に達していたようであり、5月15日(一説には17日)に開城という運びとなった。これにより、かつては駿河・遠江・三河を領した今川氏は滅亡したのである。
領国を失った氏真は妻の実家である北条氏を頼り、北条領の伊豆国へと向かった。
この時朝比奈泰朝は氏真に供奉し、伊豆へ同行している。氏真は北条氏の庇護の下に入ったが、泰朝は上杉謙信の家臣・山吉氏に援助を要請するなどの活動を行っている。
掛川城には城代として家康の重臣・石川家成・康通親子が入った。
朝比奈泰朝が登場する記事一覧
おすすめ記事一覧
-
歴史イベント
【新解釈】本能寺の変の真実!光秀が謀反を決意した真の動機とは?
-
ランキング
戦国武将のかっこいい異名・あだ名ランキングTOP10
-
ランキング
障害が残るほどの苦悩、遺書を残し死を覚悟した懺悔など黒田官兵衛の大ピンチTOP3!!
-
ランキング
織田信長を裏切り窮地に陥れた戦国武将ランキングTOP5
-
戦国時代の逸話
豊臣秀吉の指は6本あった?その真相に迫る【戦国時代の逸話】
-
どうする家康
「無」を掲げた徳川四天王・榊原康政(さかきばらやすまさ)とは?【マイナー武将列伝】
-
ランキング
戦国武将の変な名前ランキング!!
-
戦国時代の逸話
直江兼続が家康に送った「直江状」とは?痛烈な皮肉がたーぷり【戦国時代の逸話】
-
戦国時代の暮らし
戦国武将たちのセックス事情はどんなだった?【戦国時代の暮らし】
-
どうする家康
なぜ豊臣家に出奔したのか!?徳川家康の右腕であった石川数正(いしかわかずまさ)とは?【メジャー武将列伝】
-
どうする家康
家康から最も信頼された同級生・平岩親吉(ひらいわちかよし)とは?【マイナー武将列伝】
-
どうする家康
家康につかなかったため滅ぼされた三河武士、鵜殿長照(うどのながてる)とは?【マイナー武将列伝】
-
メジャー武将列伝
家康はどんな人質時代を送っていたのか?【メジャー武将列伝】
-
メジャー武将列伝
家康はなぜ松平から徳川に改姓したのか?【メジャー武将列伝】
-
戦国時代の女性
徳川家を苦しめた妖刀「村正」【戦国時代の逸話】
-
マイナー武将列伝
鳥居忠吉(とりいただよし)は何をした人?息子と共に三河武士の鑑と称された男【マイナー武将列伝】
-
蟹江七本槍
大久保忠世(おおくぼただよ)は何をした人?徳川家臣No.5の実力は?【マイナー武将列伝】