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義元亡き後も最後まで忠義を貫いた今川家臣・朝比奈泰朝(あさひなやすとも)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、今川氏の家臣である朝比奈泰朝(あさひなやすとも)です。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
朝比奈泰朝の生まれ
朝比奈泰朝は朝比奈泰能の子として誕生。
生年は不明だがゲーム信長の野望では1530年と設定されています。一説には1537年生まれとも。
寿桂尼(今川義元の母)の妹と婚姻した中御門宣秀の娘が、朝比奈泰朝の母にあたる。
つまり母と今川義元が従兄弟の関係ですね。
なので朝比奈泰朝と今川氏真 (義元の子)は親戚ということです。
今川氏真が1538年生まれなので、朝比奈泰能が少しお兄さんという感じで「大きくなったら氏真を支えるんだぞ」と教えられて育ってきたのでしょう。
父が死去すると家督を継承し、今川家臣として活躍していきます。
永禄元年(1558年)には駿東郡の霊山寺(現・沼津市)を再興し、永禄3年(1560年)には、今川義元の尾張国侵攻で井伊直盛と共に織田氏の鷲津砦を攻略。
しかし後続の本隊の義元が桶狭間の戦いで討死したため撤退した。
義元横死後、三河国・遠江国の諸将が離反していく中で朝比奈泰朝は徹底して今川氏真を支える姿勢を貫いた。
永禄5年(1562年)3月には、小野道好の讒言により謀反の疑いのかかった井伊直親を氏真の命により殺害している。
永禄11年(1568年)12月、甲斐国の武田信玄が同盟を一方的に破棄して駿河国に侵攻したため、駿河を追われた氏真を泰朝は掛川城に迎えて保護した。
掛川城の戦い
永禄11年(1568年)12月27日、徳川勢が遠江に攻め寄せ今川氏真が保護されていた掛川城の包囲を始める。
はじめのうちは大きな動きがなかったが、翌年永禄12年(1569)の1月中旬に本格的な包囲体制ができたため、大きな戦いが繰り広げられていった。
3月5日には家康自らが大手南町口・西町口・松尾曲輪・天王小路などを攻めたが、掛川城は堅城であるうえに朝比奈泰朝がよく守ったため攻め落とせず、また、今川氏の同盟勢力である相模国北条氏も海路から援軍を送ってきたため、長期戦となった。
家康は今川家家臣の調略を試みるが、ここまで残っている朝比奈氏は揺れず、また家康は武田軍の動向にも気をつける必要があった。
信玄と家康は大井川を境として東の駿河を武田軍が、西の遠江を徳川軍が手柄次第に領有するとの約束をしていたとされているが、信玄は信濃国の伊那郡より秋山信友を大将とする別働隊を派遣していた時期があり、この軍勢が遠江国をうかがう動きを見せたため、上信感を抱いていたのである。
このような状況下で、『松平記』『北条記』によると3月8日に家康から和睦を申し入れています。
家康は、かつては自分も今川氏に取り立てられた身であり、自分が遠江を取らなければ必ず信玄が取ることになるであろうから、それよりは家康に下されて和談とすれば、北条氏と申し合わせて信玄を逐い駿府を氏真に返そう、と説いたという。
この協議には北条氏も参画し、4月末頃までにはほぼ合意に達していたようであり、5月15日(一説には17日)に開城という運びとなった。
これにより、かつては駿河・遠江・三河を領した今川氏は滅亡したのである。
領国を失った氏真は妻の実家である北条氏を頼り、北条領の伊豆国へと向かった。
この時朝比奈泰朝は氏真に供奉し、伊豆へ同行している。
氏真は北条氏の庇護の下に入ったが、泰朝は上杉謙信の家臣・山吉氏に援助を要請するなどの活動を行っている。
掛川城には城代として家康の重臣・石川家成・康通親子が入った。
朝比奈泰朝のその後の消息は不明だが、一説には、徳川家臣の酒井忠次に仕えたとされる。
信長の野望での朝比奈泰朝
ゲーム信長の野望での朝比奈泰朝のパラメーターを見てみましょう。
統率 71 (327 位)
武勇 67 (477 位)
知略 60 (916 位)
内政 36 (1932 位)
外政 45 (1580 位)
合計 279 (1008 位)
2200人中の順位です。
掛川城の戦いでは、援軍が期待できない中5ヶ月間も徳川軍から城を守ったという実績があるので、統率・武勇のパラメーターが高く設定されています。
政治に関しては特に記録が残っていないので低めにされてしまったのですしょう。
まとめ
いかがでしたか?
周りが徳川に鞍替えする中、滅びゆく今川家に最後まで忠誠を尽くし守り切った朝比奈泰朝。
愚鈍で蹴鞠しかしていないイメージがある今川氏真も、忠義を尽くす腹心がいたのですね。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。