武将名鑑【信長の野望 新生】
細川晴元(ほそかわはるもと)
細川晴元(ほそかわはるもと)
細川晴元 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
57 (966 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
46 (1520 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
56 (1157 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
72 (349 位) | ||||
合計 | 231 (815 位)2201人中 |
細川晴元 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
幼名 | 聡明丸 | ||||
仮名・通称 | 六郎 | ||||
法号・戒名 | 龍昇院殿前右京兆心月清公大居士 | ||||
父 | 細川澄元 | ||||
母 | 清泰院 | ||||
配偶者・正室 | 三条公頼の娘 | ||||
側室1 | 六角定頼の娘 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1514年 | 摂津の戦国大名。三好元長と結んで細川高国を討ち、政権を樹立する。のちに元長を討つが、細川氏綱を擁立した三好長慶(元長の子)に敗れ、近江に逃れた。 | |||||||||
死亡年 | 1563年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
保守 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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能弁 | 外交取次次の信用上昇増加 | ||||||||||
巧言 | 他勢力との交渉に関する具申が可能 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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同討 | 敵部隊の兵力減少 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 33 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 40 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 47 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 死亡 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 死亡 |
細川晴元が登場する合戦
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中嶋の戦い [細川晴元と堺公方]
1531年3月10日
大阪府大阪市淀川区西中島
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天王寺の戦い [細川晴元と堺公方]
1531年6月4日
大阪府大阪市天王寺区四天王寺
-
飯盛山城の戦い [細川晴元と堺公方]
1532年5月 ~ 6月15日
大阪府四条綴市南野
これに対し細川晴元は、富松城の薬師寺国盛のほか伊丹城の高畠長直や池田城の池田信正に命じて進撃を阻止させようとした。
河内守護代の木沢長政が細川晴元に通じて守護の畠山義堯から離反したため、享禄5年(1532年)5月、態勢を整えた義堯は三好海雲(元長)と結んで、長政の居城である河内飯盛山城を攻撃した。
木沢長政は細川晴元に援軍を要請したが、畠山・三好連合軍の攻囲を排除させるには至らなかった。
自軍での武力排除を断念した晴元・長政らは、山科本願寺の第10世法主証如に一揆軍の蜂起を要請する。
17歳になった証如は、祖父の実如の遺言であった「諸国の武士を敵とせず」という禁を破って、6月5日に山科本願寺から大坂に移動し、摂津・河内・和泉の本願寺門徒に動員をかけた。
これに応じた門徒は3万に及んだ。6月15日に飯盛山城を包囲する畠山義堯らを背後から襲った本願寺一揆軍は、三好勝宗を含む200余兵を討ち取り、退却する畠山義堯を南河内まで追撃して捕らえ、6月17日に門徒の集会所である石川道場で自害に追い込んだ。
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顕本寺の戦い [細川晴元と堺公方]
1532年6月20日
大阪府堺市堺区宿院町
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堺北庄の戦い [細川晴元と堺公方]
1532年8月8日
大阪府堺市堺区北庄町
享禄5年(1532)6月の顕本寺の戦いで、浄土真宗本願寺派門徒の加勢を得て三好催雲を討った細川晴元は、室町幕府管領の立場から、本願寺との決別と一向一揆鎮圧を決意する。
この年の8月4日、晴元の要請により配下の木沢長政が本願寺の拠点のひとつであった堺の浅香道場付近に放火したことと晴元の家臣である茨木長隆の画策により、一向一揆に対抗する形で和泉・河内・摂津あたりで柳本賢治の家臣であった山村正次に率いられて法華一揆が勃発する。
8月8日、一揆勢は晴元がいる堺北庄を攻撃するが、逆に木沢軍が一揆勢を大坂まで追撃して破った。
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本願寺の戦い [細川晴元と堺公方]
1532年8月23日 ~ 24日
京都府京都市山科区西野山階町
本願寺派門徒の攻撃を受けた細川晴元は洛中の法華一揆と結び、享禄5年(1532)8月7日、法華一揆勢は京都山科の本願寺の寺院を次々と攻撃する。
8月8日、細川軍も堺から出撃して大坂御坊を攻撃し、一向一揆を破る。
12日には六角軍と連合して蓮淳のいる大津の顕証寺を攻め落とし、16日と17日は東山で一向一揆と戦う。
23日には近江守護・六角定頼の加勢を得た晴元配下の柳本信堯が、証如のいる山科本願寺を3万の大軍で総攻撃を加えた。
三重の土塁堀に囲まれた本願寺も、細川勢の猛攻を防ぎきれず、灰燼に帰してしまう。
翌日24日に水落から寺内に攻め込んで山科本願寺は落城。
その後、宗主である証如が逗留していた大坂御坊が、本願寺を継承した。
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堺南庄の戦い [細川晴元と堺公方]
1533年2月10日
大阪府堺市堺区南庄町
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伊丹城の戦い [細川晴元と堺公方]
1533年3月5日 ~ 29日
兵庫県伊丹市伊丹
本願寺第10世証如は、洛北鞍馬で挙兵した細川高国の弟の晴国と結び、細川晴元に攻勢をかけようとしていた。
そうしたなか証如の檄に応じた一向一揆勢は、天文2年(1533年)3月5日、晴元方の伊丹親興が守る摂津伊丹城を攻撃する。
一向一揆勢は、伊丹城の堀を埋めるなどして攻城を続けたが、将軍・足利義晴の管領である細川晴元と管領代の茨木長隆の命令を受けた木沢長政は、3月29日、糾合した法華衆の一揆勢とで一向一揆勢を挟撃し、門徒ら500人余を討ち取った。
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池田城の戦い [細川晴元と細川氏綱]
1546年9月10日 ~ 1547年6月25日
大阪府池田市城山町
細川氏綱・畠山政国・遊佐長教らによる摂津侵攻により、伊丹親興をのぞく摂津国内の国衆はことごとく氏綱・政国に降った。
細川晴元は摂津を奪回するため、天文15年(1546年)9月10日、晴元を裏切り氏綱に帰服した摂津池田城の池田信正を攻撃する。
この攻撃で池田の町が放火されました。
籠城した信正は、晴元方の三好長慶・安宅冬康・伊丹親興らによる攻撃を1年近くにわたって凌いでいたが、翌天文16年(1547年)6月25日、摂津芥川城が陥落し、晴元方の軍勢が包囲陣に加わったため、信正は降伏した。
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嵯峨の戦い [細川晴元と細川氏綱]
1546年9月14日
京都府京都市右京区嵯峨
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高雄城の戦い [細川晴元と細川氏綱]
1547年
京都府京都市右京区梅ヶ畑高雄町
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勝軍地蔵山城の戦い [細川晴元と細川氏綱]
1547年7月12日 ~ 19日
京都府京都市左京区北白川
天文16年(1547年)7月、管領細川晴元と対立する第12代将軍の足利義晴は、征夷大将軍を息子の足利義輝に譲り自らは大御所となり、洛中の細川氏綱・近衛稙家らと結んで洛北の修築をした勝軍地蔵山城に籠城すると、晴元打倒の兵を挙げた。
これに対し、主力を氏綱方への抑えとして摂津・河内に残した晴元は、7月12日、摂津から入浴すると相国寺に本陣をおき、家臣の三好長慶や岳父の六角定頼が率いる2万の大軍とともに、勝軍地蔵山城を完全に包囲する。
※岳父・・・妻の父。義父。 -
内野の戦い [細川晴元と細川氏綱]
1547年10月6日
京都府京都市上京区聚楽町一帯
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江口の戦い [三好長慶と細川晴元]
1549年6月24日
大阪府大阪市東淀川区
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