三好長慶と細川晴元
三好長慶と細川晴元
1548年10月
三好長慶と細川晴元
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榎並城の戦い(えなみじょうのたたかい)
1548年10月28日 ~ 1549年6月24日
大阪府大阪市城東区野江
天文17年(1548年)5月6日、細川晴元はかつて細川氏綱に寝返った摂津国人の池田信正を切腹させたことにより三好長慶や他の摂津国人衆の離反を招いた。
その結果、10月28日に三好長慶は遊佐長教らと共に細川氏綱側へ転属し、弟の十河一存に命じて三好政長の子の政勝が拠る榎並(十七箇所)城を攻めさせた。
細川晴元は榎並城で籠っていた政勝を見捨てては畿内の国衆からさらに見限られる恐れがある為、晴元は戦力で劣るまま摂津国江口において榎並城を救援しようとした。
しかし、正面からの主力決戦を回避してあくまでも六角軍の到来を待ってから決戦に臨もうとした為、機先を制せられた晴元の主力は戦わないまま翌年の江口の戦いで敗北する。
この戦いで三好政長・高畠長直らが討死し、細川晴元や三好政勝は追撃を恐れて将軍・義輝らと共に近江国坂本まで逃れ、榎並城は長慶の手に帰している。
その後文献の記録がないので榎並城はこの頃に廃城したと思われる。
柴島城の戦い(くにじまじょうのたたかい)
1549年3月1日
大阪府大阪市東淀川区柴島
江口の戦い(えぐちのたたかい)
1549年6月24日
大阪府大阪市東淀川区
伊丹城の戦い(いたみじょうのたたかい)
1549年1月11日 ~ 1550年3月26日
兵庫県伊丹市伊丹
伊丹城(摂津有岡城)
細川晴元に反旗を翻した三好長慶に摂津の国衆が同調するなか、伊丹城主の伊丹親興や三宅国村や木沢長政らは長慶に抵抗し続けていた。
天文18年(1549年)正月11日、越水城から出陣した長慶は、伊丹親興を伊丹城に攻撃する。
これに対し晴元と三好政長の軍勢が後詰に向かったが、6月の江口の戦いで長慶が政長を敗死させ、晴元は近江に敗走した。
孤立した伊丹城は、京都を制圧した長慶に攻囲され、翌19年(1550年)3月28日、親興は遊佐長教の仲介で和睦に応じて開城した。
中尾城の戦い(なかおじょうのたたかい)
1550年11月21日
京都府京都市左京区浄土寺大山町
志賀の戦い(しがのたたかい)
1551年2月7日 ~ 26日
滋賀県大津市滋賀里
相国寺の戦い(しょうこくじのたたかい)
1551年7月14日
京都府京都市上京区相国寺門前町
第二次八上城の戦い(だいにじやかみじょうのたたかい)
1552年4月25日 ~ 5月23日
兵庫県篠山市八上内
八上城がある高城山
天文20年(1551年)の相国寺の戦いののち、三好長慶と足利義藤(義輝)・細川晴元との和睦は成立した。
しかしこの和睦に納得がいかなかった細川晴元は出家し家督を子の聡明丸(昭元)に譲ると、若狭・丹波に潜伏し長慶への抵抗を続けていた。
天文21年(1552年)5月、三好長慶が波多野晴通が守る丹波国八上城を攻めるが、長慶方として従軍していた芥川孫十郎や池田長正、小川氏が波多野氏に内通した。
そのため、長慶は摂津越水城へと引き上げた。
芥川城の戦い(あくたがわじょうのたたかい)
1553年7月3日 ~ 8月22日
大阪府高槻市原
霊山城の戦い(りょうぜんじょうのたたかい)
1553年8月1日
京都府京都市東山区清閑霊山町
数掛山城の戦い(かずかけやまじょうのたたかい)
1553年9月18日
京都府亀岡市本梅町平松
白川口の戦い(しろかわぐちのたたかい)
1558年6月9日
京都府京都市左京区白川
高屋城の戦い(たかやじょうのたたかい)
1559年8月2日
大阪府羽曳野市古市
飯盛山城の戦い(いいもりやまじょうのたたかい)
1560年10月24日
大阪府四条綴市南野
三好長慶の支援を受けて高屋城に復帰した河内守護の畠山高政は、河内に明るい安見宗房(直政)ら抜きでの分国支配が行き詰まったためか、密かに宗房と和睦していた。
これを知った長慶は、永禄3年(1560年)10月、河内に出陣すると畠山高政の高屋城と安見宗房が拠る飯盛山城の攻略に向かう。
紀伊の根来衆からの援軍を長慶に撃破され、後詰のあてがなくなったことで降伏し、10月24日には高政が高屋城を、27日には宗房が飯盛山城を明け渡して堺に退去した。
長慶が芥川城から飯盛山城に移ると、この城を拠点に五畿内(大和、山城、河内、摂津、和泉)と四国の一帯を統治し、高屋城には長慶の弟の三好実休が入っている。
勝軍地蔵山城の戦い(しょうぐんじぞうやまじょうのたたかい)
1561年7月28日 ~ 11月24日
京都府京都市左京区北白川清沢口町
久米田の戦い(くめだのたたかい)
1562年3月5日
大阪府岸和田市池尻町
岸和田城
教興寺の戦い(きょうこうじのたたかい)
1562年5月19日 ~ 20日
大阪府八尾市教興寺
この合戦に登場する武将
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十河一存 (そごうかずまさ)
三好家臣。三好元長の四男。十河家を継ぎ、十河城主となる。家中随一の猛将として鳴らし「鬼十河」の異名をとった。有馬権現への参詣途中に落馬し、死去。
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三好政勝 (みよしまさかつ)
細川家臣。榎並城主。政長の子。父を殺した三好長慶と争う。長慶死後は三好三人衆と和解した。織田信長の畿内平定軍に降った。のち豊臣、徳川家に仕えた。
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三好長慶 (みよしながよし)
細川家臣。主家の実権を奪って勢力を拡げ、主君・晴元を追放して畿内の掌握に成功した。しかし嫡男・義興や弟たちの死後は心身に支障をきたし、病死した。
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細川晴元 (ほそかわはるもと)
摂津の戦国大名。三好元長と結んで細川高国を討ち、政権を樹立する。のちに元長を討つが、細川氏綱を擁立した三好長慶(元長の子)に敗れ、近江に逃れた。
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三好政長 (みよしまさなが)
細川家臣。摂津榎並城主。主君・晴元の側近として各地の合戦で活躍する。のちに一族の三好長慶と対立してたびたび合戦におよび、摂津江口合戦で敗死した。
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遊佐長教 (ゆさながのり)
畠山家臣。河内守護代を務めた。軍略に優れ、主家の実権を握る。三好長慶と争うが、娘を長慶に嫁がせて和睦した。のちに反長慶派の刺客により暗殺された。
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足利義輝 (あしかがよしてる)
室町幕府13代将軍。塚原卜伝、上泉信綱らに師事した剣豪。失われた幕府権力の回復に奔走するが、のちに松永久秀らに奇襲され、孤軍奮闘の末自害した。
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六角義賢 (ろっかくよしかた)
近江の戦国大名。定頼の子。江南に勢力を伸ばす。三好家に京を追われた足利将軍家を保護し、仲裁に奔走した。のち織田信長の上洛軍に敗れ、所領を失った。
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松永長頼 (まつながながより)
三好家臣。久秀の弟。軍事的才幹をもって主君・長慶に仕え、のちに山科七郷の代官となる。しかし、丹波黒井城主・赤井直正の攻撃を受けて敗れ、戦死した。
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香西元成 (こうざいもとなり)
細川家臣。三好長慶が主君・晴元を追放したあと、政権回復を目指し戦う。波多野晴通を援護して松永久秀を破るなど活躍したが、三好家との戦いで戦死した。
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松永久秀 (まつながひさひで)
三好家臣。主家を簒奪し、将軍・足利義輝を殺し、東大寺大仏殿を焼いた稀代の梟雄。のち織田信長に属し、謀叛を起こすが敗れ「平蜘蛛」とともに爆死した。
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波多野晴通 (はたのはるみち)
管領細川家臣。稙通の子。三好軍の度重なる攻撃を受ける。撃退に努めるがのちに松永久秀に降り、城を追われた。居城の八上城には久秀の甥・彦六が入った。
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池田長正 (いけだながまさ)
摂津の豪族。池田城主。信正の子。父が細川晴元により自害させられたあと、家督を継ぐ。三好長慶に属し、波多野家や河内畠山家との戦いで戦功を立てた。
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内藤国貞 (ないとうくにさだ)
管領細川家臣。丹波守護代。細川氏綱・三好長慶と結んで主君・晴元と争う。のち松永久秀らとともに晴元方の波多野晴通を攻めるが、晴元軍に敗れ戦死した。
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三好長逸 (みよしながゆき)
三好家臣。三好三人衆の筆頭。主君・義継や松永久秀らと離合集散を繰り返し、家中に混乱を招く。のち織田信長の畿内平定軍に敗れ逃亡、行方不明となった。
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安見直政 (やすみなおまさ)
畠山家臣。河内交野城主。河内守護代を務めた。主君・高政を紀伊に追放し、高政の弟・昭高を擁立する。のち織田信長の畿内平定軍に降り、本願寺と戦った。
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三好実休 (みよしじっきゅう)
三好家臣。元長の次男。兄・長慶の畿内進出後、本国・阿波の経略を担当。長慶の片腕として内政、軍事に活躍したが、和泉久米田合戦で戦死。茶道に長じた。
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畠山高政 (はたけやまたかまさ)
河内守護。政国の子。三好家と和戦を繰り返した。のちに織田信長に降って河内半国を与えられるが、家臣・遊佐信教との争いに敗北し、紀伊岩室城に逃れた。
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三好義興 (みよしよしおき)
長慶の嫡男。室町幕府御供衆を務めた。六角家や畠山家との合戦に勝つなど活躍し、将来を嘱望されたが、22歳で急逝した。松永久秀に毒殺されたともいう。
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十市遠勝 (とおちとおかつ)
大和の国衆。遠忠の子。筒井家に属すが松永久秀に降った。三好三人衆と久秀が対立すると、三好方に属して内部分裂を起こす。久秀の攻勢に押され降服した。
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安宅冬康 (あたぎふゆやす)
三好家臣。三好元長の三男。安宅家を継ぎ、淡路水軍を統率。兄・三好長慶を助けて活躍したが、松永久秀の讒言により兄に殺された。歌や書、茶道に長じた。
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篠原長房 (しのはらながふさ)
三好家臣。主家の領国経営の基礎となる分国法「新加制式」を制定した。三好三人衆に次ぐ地位にあったが、同族・篠原自遁に讒言され主君・長治に殺された。
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三好康長 (みよしやすなが)
三好家臣。長慶の叔父。咲岩と号した。織田信長の上洛軍に敗れ、家臣となる。阿波・讃岐の国衆を多く信長方に誘引した。本能寺の変後は豊臣秀吉に従った。
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湯川直光 (ゆかわなおみつ)
紀伊の豪族。湯河家は甲斐武田家の庶流で、紀伊国人衆の旗頭として活躍した家柄。河内畠山家に属して三好家と戦うが敗れ、一族の者多数とともに戦死した。