武将名鑑【信長の野望 新生】
直江兼続(なおえかねつぐ)
直江兼続(なおえかねつぐ)
直江兼続 の能力値 | |||||
---|---|---|---|---|---|
統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
85 (58 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
75 (224 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
86 (58 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
94 (11 位) | ||||
合計 | 340 (33 位)2201人中 |
直江兼続 の基礎データ | |||||
---|---|---|---|---|---|
性別 | 男 | ||||
別名 | 樋口兼続 重光 | ||||
幼名 | 与六 與六 | ||||
仮名・通称 | 山城守 城州 | ||||
法号・戒名 | 達三全智居士 英貔院殿達三全智居士 | ||||
父 | 樋口兼豊 | ||||
母 | 藤もしくは蘭子 | ||||
配偶者・正室 | 船(直江景綱の娘) |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1560年 | 上杉家臣。筆頭家老を務めた。豊臣秀吉の評価は高く、陪臣ながら出羽米沢30万石を領した。関ヶ原合戦の際は西軍に属し、徳川家康に「直江状」を送った。 | |||||||||
死亡年 | 1619年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
保守 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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盛名 | 城主のときに配下武将の忠誠上昇 | ||||||||||
策謀 | 特殊な調略具申が可能 | ||||||||||
能史 | 街道に関する具申が可能 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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同討 | 敵部隊の兵力減少 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 未登場 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 未登場 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 元服前 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 元服前 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 23 |
直江兼続が登場する合戦
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畑谷城の戦い [東北の関ヶ原]
1600年9月13日
山形県東村山郡山辺町畑谷
上杉景勝と結んでいた出羽山形城の最上義光は、徳川家康による会津攻めを受け、家康側につく。
このため、景勝は腹心の直江兼続に最上氏を攻めさせたのである。
兼続率いる上杉勢2万余は、まず出羽畑谷城を目標とした。
3方向から攻め、兼続自身は置賜より荒砥方面を経由して狐越街道を山形城へ向けて進軍し、畑谷城に迫った。これに対し義光は上杉勢を山形城まで引摺り込む作戦を取るべく、畑谷城城主の江口光清に撤退命令を出した。
しかし光清は「敵を目前にして城を捨てたとあっては末代までの名折れ」と言ってこれを聞き入れず、畑谷城に残り上杉勢を迎え撃つことにした。9月11日未明、畑谷城は上杉勢約2万余の軍勢に囲まれる。
兼続は「開城すれば名誉ある処遇をする」と申し出るも、光清はこれを拒否し一族の子女を城外に逃がしたうえで約300名の手勢を率いて籠城策に出た。上杉勢は13日未明に攻撃を開始したが、城内よりの応戦が激しく、攻めあぐねていた。
そこで兼続は一部の手勢を畑谷城の裏山に回らせ、一斉攻撃を開始。
これには城兵らもたまらず、光清の指揮により全員が打って出た。
光清らの死にもの狂いの奮戦に上杉勢は正面より相手にする者はいなかったが、多勢に無勢、子の江口小吉時直や、甥の松田忠作らが討取られ、光清も城内に戻り自刃して果てた。
この間約一刻(約2時間)であったという。こうして畑谷城は落城したが、光清の奮戦ぶりは最上勢の士気を大いに高める事となり、また上杉勢はこの戦いによって1,000名にも上る死傷者を出して2日間の足止めを受けた。
これにより、この後の長谷堂城合戦での上杉勢撃退に繋がる事となった。
畑谷城を落とした上杉勢は、長谷堂城に向かった。
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長谷堂城の戦い [東北の関ヶ原]
1600年9月15日 ~ 10月1日
山形県山形市長谷堂
長谷堂合戦の地
直江兼続が登場する記事一覧
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