武将名鑑【信長の野望 新生】
伊達政宗(だてまさむね)
伊達政宗(だてまさむね)
伊達政宗 の能力値 | |||||
---|---|---|---|---|---|
統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
94 (11 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
86 (54 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
87 (45 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
96 (6 位) | ||||
合計 | 363 (9 位)2201人中 |
伊達政宗 の基礎データ | |||||
---|---|---|---|---|---|
性別 | 男 | ||||
幼名 | 梵天丸 | ||||
仮名・通称 | 藤次郎 | ||||
渾名 | 独眼竜 | ||||
法号・戒名 | 瑞巌寺殿貞山禅利大居士 | ||||
父 | 伊達輝宗 | ||||
母 | 義姫 | ||||
配偶者・正室 | 愛姫 | ||||
側室1 | 新造の方 | ||||
側室2 | 飯坂猫 | ||||
側室3 | 於山方、荘厳院、勝女姫、妙伴 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
誕生年 | 1567年 | 伊達家17代当主。輝宗の嫡男。瞬く間に周辺諸国を切り従えて24歳で奥州に覇を唱え「独眼竜」と畏怖された。権謀術数で豊臣・徳川両政権を生き抜いた。 | |||||||||
死亡年 | 1636年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
革新 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
|||||||||||
伊達の粋 | 自勢力より威信の高い勢力領地を攻めると能力上昇 | ||||||||||
人脈 | 遠国登用に関する具申が可能 | ||||||||||
竜騎兵 | 自部隊の騎馬LV・鉄砲LVが上昇 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
|||||||||||
独眼竜 | 敵部隊の兵力減少 敵部隊の防御低下 | ||||||||||
固有政策 | |||||||||||
竜騎兵編制 | 鉄砲・騎馬共にLV1以上なら攻撃 + X |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 未登場 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 未登場 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 未登場 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 元服前 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 16 |
伊達政宗が登場する合戦
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小手森城の戦い [伊達政宗の南奥羽平定]
1585年8月27日
福島県二本松市針道
天正13年(1585年)、出羽国米沢城主・伊達政宗は三春城主・田村清顕とともに、小浜城主の大内定綱を攻略するために出陣した。
これは田村氏に従っていた大内定綱が、蘆名氏を通じて自立を図ったためである。
河股(現・福島県伊達郡川俣町)方面から塩松に攻め入り、定綱の縁戚にあたる菊池顕綱が守る小手森城を囲んだ。
8月27日、政宗は城へ総攻撃をかけ自ら最前線に立ち、鉄砲八千丁を撃たせるなどの激しい攻撃でその日のうちに落城。
このとき、政宗は城主・菊池顕綱をはじめとする敵将や敵兵だけでなく、城内にいた女や子供・犬に至るまでも全て撫で斬りにしその数は総勢1,000人に及んだ。
このことは周辺の大名や住民にも強烈なインパクトを残して、「小手森城の撫で斬り」として後世まで語り継がれることとなった。
こののち小浜城は自落し、定綱は二本松城に落ちた。
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二本松城の戦い [伊達政宗の南奥羽平定]
1585年10月15日 ~ 18日
福島県二本松市郭内
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人取橋の戦い [伊達政宗の南奥羽平定]
1585年11月17日
福島県本宮市青田一帯
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窪田の戦い [伊達政宗の南奥羽平定]
1588年6月23日 ~ 7月21日
福島県郡山市富久山町久保田一帯
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摺上原の戦い [伊達政宗の南奥羽平定]
1589年6月5日
福島県耶麻郡猪苗代町一帯
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宮崎城の戦い [豊臣秀吉の奥羽平定]
1591年6月24日 ~ 25日
宮城県加美郡加美町宮崎
名生城が落城したのち、大崎氏の遺臣の笠原(民部)隆親は居城の陸奥宮崎城で兵を挙げる。
秀吉から鎮圧を命じられた伊達政宗は、天正19年(1591年)6月24日、宮崎城に総攻撃をかけた。初日から伊達の智将・浜田隆景が討ち死にし、大松沢元実も腰を撃ち抜かれるなど伊達勢の被害が甚大だった。
2日目、いつも先陣を競い合っていた伊達家臣の原田宗時と後藤信康らが行動を起こす。
後藤信康が夜にこっそり抜け出して宮崎城の石垣に取り付くと、「えらい早駆けだな」という声がした。
みてみると信康より先に忍び込んでいた原田宗時が城門の柱にしがみついていた。2人は城内に忍び込むと城門を開け放って味方を招き入れ、そのまま城は大混乱となった。
伊達勢がこの激戦を制し、宮崎城を落とす。
伊達成実は「宮崎での犠牲は少なく済ませ、早急に敵の本拠地の佐沼へ向かうべし」と主張するも、政宗は笠原隆親の降伏を認めず、他の一揆勢に対して見せしめにするため城兵ら2500余人をことごとく撫で切りにした。
政宗は、城王一族の首級80余を京都に送ったという。
政宗の主張した「徹底的な殲滅」は佐沼城でも行われることになる。
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佐沼城の戦い [豊臣秀吉の奥羽平定]
1591年6月28日 ~ 7月3日
宮城県登米市迫町佐沼
宮崎城を攻略した伊達政宗は、葛西晴信の属城であり一揆勢1万余が拠っている佐沼城に向かう。
6月28日から始まった総攻撃により、7月3日に一揆勢2500余が討たれ佐沼城は落城した。
こののち政宗は葛西・大崎の一揆勢に降伏をよびかけ、桃生郡須江山に集まった葛西氏遺臣を8月14日にまとめて討ち取った。
こうして葛西・大崎一揆は鎮圧され終結した。
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白石城の戦い [東北の関ヶ原]
1600年7月24日 ~ 25日
宮城県白石市益岡町
徳川家康は伊達政宗に対し、かつて豊臣秀吉によって奪われた白石城(伊達家旧領地)の攻略話を持ち掛けます。
伊達政宗にとっても、白石城を含む旧領地を取り戻す好機でした。信夫口から上杉領に侵攻する場合は刈田郡に入ることになる。
この刈田郡を抑える拠点が白石城で、伊達勢は白石城攻略にかかります。上杉氏の白石城代は甘粕景継であったが、景勝の命令で若松城に詰めていたため、甥の登坂勝乃が代理として守備していた。
7月24日にこれを好機ととらえた岩出山城の伊達政宗は白石城を急襲。
城下町や外曲輪、三の丸に火をかけて炎上させた。
伊達軍は城の地理に明るかったため登坂勝乃は防戦に務めるも、その日のうちに700余が討ち取られてしまう。
7月25日午前までには本丸を除く全域を支配した。登坂勝乃は勝機なしとして降伏しようとしたが、かつて政宗に滅ぼされた二本松畠山氏の旧臣・鹿子田右衛門が降伏に猛反対した。
このため、勝乃は右衛門を謀殺して政宗に降伏した。
政宗は叔父の石川昭光に守備を任せて北目城に引き揚げた。 -
道明寺の戦い [大坂夏の陣]
1615年5月6日
大阪府藤井寺市道明寺一帯
二条城に入った徳川家康は、全軍を二手に分けると一手を河内から摂津に向かわせ、もう一手を大和から河内を経て摂津に向かわせました。
大坂城南東に位置する道明寺あたりで合流させようとしたのである。大和ルートの水野勝成・伊達政宗・松平忠輝らは奈良で陣容を整えると、5月5日に3万余の大軍で道明寺に向かいます。
大阪城の堀を埋められ野戦でしか勝機がない豊臣方は、狭隘な道明寺付近で徳川方を迎え撃つことを決め、後藤又兵衛・薄田兼相・真田信繁(幸村)・毛利勝永らは進軍します。
5月6日午前0時、後藤又兵衛指揮の兵2,800は平野を出発し、藤井寺を経て夜明け前に道明寺に到着しました。
そして幕府軍が既に国分に展開していることを知る。
しかし真田信繁・毛利勝永らの軍勢が濃霧に阻まれて遅延したため、後藤又兵衛は単独で徳川方の大軍と当たることを余儀なくされる。作戦が既に破綻していること認めた後藤は、石川を渡り小松山(現在の柏原市立玉手山公園一帯)に登り陣を構えます。
徳川軍は小松山に敵が布陣していることを知り、それを包囲することにした。午前4時、後藤は松倉重政・奥田忠次勢に対し攻撃を仕掛けました。
奥田は戦死し、松倉勢も崩れかかったが、水野勝成・堀直寄が来援してかろうじて助かった。小松山を包囲した幕府軍の伊達政宗・松平忠明らは銃撃を加え、小松山にとりつこうとします。
後藤勢は、次々に新手を繰り出す幕府軍を数度にわたり撃退したがそれにも限界があった。後藤は負傷者らを後方に下げ、小松山を下り隊に二手に分け幕府軍に最後の突撃を敢行した。
いくつか敵数隊を撃退するも丹羽氏信勢に側面を衝かれ立ち往生し、さらに伊達政宗の軍勢に銃撃され後藤が被弾。
正午頃、約8時間の戦闘の末、後藤は戦死し後藤隊も壊滅してしまう。
このころになって前隊の残り、薄田兼相、明石全登、山川賢信らが道明寺に到着し後藤を援護します。
薄田兼相は大坂冬の陣における博労淵砦の戦いで、留守にしている隙に砦を奪われる失態をおかしていたので、その汚名を雪ぐべく奮戦して討死した。
敗北した豊臣方は、西の誉田まで兵を退いていく。 -
誉田の戦い [大坂夏の陣]
1615年5月6日
大阪府羽曳野市誉田一帯
後隊の真田信繁・毛利勝永の軍勢が道明寺に着陣したのは、5月6日の正午頃で、すでに後藤又兵衛の軍勢は壊滅していた。
後退してきた豊臣方の兵を収容し誉田村付近に着陣した。伊達勢は豊臣勢の後方を衝こうとしたため、伊達政宗配下の片倉重長は真田勢を見るとこれに攻め寄せます。
片倉は部隊を前後2隊に分け、左右に鉄砲隊を展開させて攻撃。
これに対し真田勢も鉄砲で応戦しつつ、兵を伏せ片倉勢の接近を待って迎え撃ちました。片倉>自身が馬上4騎を切り伏せたり、渡辺糺は負傷するなど激戦が展開されたが、真田勢が伊達勢を800m後方の道明寺辺りまで押し込みます。
しかし伊達政宗の女婿にあたる松平忠輝の加勢を得て伊達勢も持ち直す。真田信繁は藤井寺まで後退し、毛利勢と合流します。
徳川軍は道明寺から誉田の辺りで陣を建て直し、豊臣軍は藤井寺から誉田の西にかけて布陣、両軍が対峙し膠着状態になった。
午後2時半頃、大坂城から八尾・若江の敗報を受け豊臣勢は退陣します。
豊臣軍は真田隊を殿軍とし、午後4時過ぎから順次天王寺方面へ撤退を開始。
徳川軍の水野勝成は追撃を主張するも、伊達政宗は兵の疲労を理由に応じなかった。
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