武将名鑑【信長の野望 新生(パワーアップキット)】
大井貞清(おおいさだきよ)
大井貞清(おおいさだきよ)
大井貞清 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
43 (1662 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
35 (1977 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
43 (1865 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
38 (1891 位) | ||||
合計 | 159 (2076 位)2201人中 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1506年 | 武田家臣。もとは信濃の豪族で、たびたび武田に攻められ、降伏する。村上義清や上杉憲政に内通するが、再び武田に降伏。長篠の戦いに出陣し、討死した。 | |||||||||
死亡年 | 1575年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
中道 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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鉄壁 | 所属城の耐久ダメージ減少 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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足止 | 敵部隊の機動低下 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
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城塁固守 | 城の耐久上限増加 腰兵糧日数減少 | ||||||||||
奉行
準備中 |
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作事奉行 | 裁量権委譲の維持費削減 |
シナリオ | |||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | 城 | ||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 41 | |||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 48 | 躑躅ヶ崎館 | ||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 55 | 砥石城 | ||||||||
1567年8月 | 天下布武 | 62 | 小諸城 | ||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 65 | 小諸城 | ||||||||
1572年12月 | 三方ヶ原の戦い | 67 | 小諸城 | ||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 死亡 | |||||||||
1591年10月 | 天下無事ならず | - | |||||||||
1600年7月 | 関ヶ原の戦い | 死亡 | |||||||||
1614年8月 | 大坂の陣 | 死亡 |
大井貞清が登場する合戦
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内山城の戦い [武田晴信の美濃平定]
1546年5月9日 ~ 20日
長野県佐久市内山
甲斐の武田晴信(信玄)は信濃諏訪郡・伊那郡を制圧した後、信濃佐久郡への侵攻を開始した。
内山城は佐久から上野国甘楽郡に通じる要衝であり、北に位置する志賀城と共に反武田勢力の拠点であった。
関東管領・山内上杉憲政の被官である高田憲頼の所領であり、小笠原氏の庶流にあたる大井貞清が内山城を守っていた。
この先、武田氏が信濃国に深く進出するためには、佐久郡を制圧し、山内上杉氏を牽制する必要があったのである。
天文15年(1546年)5月9日、そこで晴信は内山城を攻撃する。
大井勢が頑強に防戦する様子をみた晴信は、力攻めを諦めて兵糧攻めに切り替える。
10日には水の手を取って城攻めを優位にし、14日には本丸以外を占領した。
内山城は断崖を要害としてなおも持ちこたえていたが、5月20日、貞清は抗戦の不利を悟り、ついに内山城を開城して野沢へと落ち延びていった。
晴信は同年7月に内山城の新たな城主として、守備の名手として名高い上原伊賀守虎満(小山田昌辰)を任命し防衛にあたらせた。
翌年4月16日には、晴信は使者として駒井政武(高白斎)を派遣し、大井貞清父子(貞清と父の貞隆)に対し出仕を促した。
これは内山城の籠城戦での貞清の手腕を評価したものであった。
父子はこれに応じ、5月4日に甲府に向かい、6日に出仕を果たしている。
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志賀城の戦い [武田晴信の美濃平定]
1547年
長野県佐久市志賀
大井一族が壊滅状態になったことで佐久郡の大半が武田氏に制圧されたが、関東管領の上杉憲政の支援を受けて志賀城の笠原清繁は抵抗を続けていた。
笠原氏は上杉氏家臣の高田氏と縁戚関係にあり、上杉氏からの援軍として高田憲頼父子が志賀城に派遣されていた。
武田晴信(信玄)は大井三河守(貞清)を先手として、天文16年(1547年)閏7月24日に城の包囲を開始した。
閏7月25日には金堀衆が城の水の手を断つことに成功。
8月6日の小田井原の戦いで上杉憲政からの後詰を撃破した晴信は、上杉方の3000の首級を城下に晒して、援軍の来ないことを知らしめた。
救援の望みが全く立たれた城兵の士気は大きく衰えたという。
8月10日、笠原清繁は城から打って出たが武田軍の総攻めにより外曲輪・二の曲輪まで焼き落とされる。
翌11日に武田軍は残る本曲輪を攻め、清繁が自刃し援将の高田憲頼父子ら300余人が討ち取られて落城した。
これにより晴信の佐久郡平定がなった。
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