武田晴信の美濃平定
武田晴信の美濃平定
1541年5月
村上義清と武田晴信
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海野平の戦い(うんのたいらのたたかい)
1541年5月13日
長野県上田市蒼久保
上原城の戦い(うえはらじょうのたたかい)
1542年7月2日
長野県茅野市ちの上原
桑原城の戦い(くわばらじょうのたたかい)
1542年7月3日 ~ 4日
長野県諏訪市四賀桑原
天文11年(1542年)6月29日、武田晴信(信玄)は御射山に本陣を構えた。
これに対して諏訪軍は7月1日に矢崎原で武田軍と対峙した。
諏訪軍は騎馬150、歩兵700から800人と兵力的な余裕がなく、武田・高遠軍と対峙するだけの力はなかったため、頼重は自らの居城である上原城を焼き捨てて、支城の桑原城へ後退した。
兵力や権力、軍費において武田軍が優位であり、頼重は苦境に立たされていた。
7月3日、晴信は桑原城に逃れた諏訪頼重を包囲すると、翌4日には頼重が一命を助けられるという条件で和睦に応じ、降伏開城した。
しかし、7月21日、晴信は約束を破り、頼重を甲斐府中(甲府)に連行して幽閉すると、東光寺で頼重と弟の頼高を自刃させた。
これにより諏訪惣領家は実質的に滅亡した。
晴信は、頼重の異母妹との間に生まれた寅王丸を擁して諏訪支配を進め、上原城を拠点として家臣の板垣信方を配置させた。
宮川の戦い(みやがわのたたかい)
1542年9月25日
長野県茅野市宮川安国寺
天文11年(1542年)7月、諏訪庶家の高遠頼継とともに桑原城の戦いで諏訪惣領家の諏訪頼重を滅ぼした武田晴信(信玄)は、頼重の遺領である諏訪郡を頼継と折半した。
これにより諏訪領は宮川以西を高遠領、以東を武田領となったが、諏訪惣領家の家督を継いで諏訪郡一円を支配下におこうとする頼継はこれに不満を抱き、晴信に反旗を翻す。
9月10日、高遠頼継は武田領に侵攻して上原城を攻め落とし、さらに諏訪上社の矢島満清、有賀遠江守、伊那郡箕輪の福与城主・藤沢頼親や土豪の春近衆を味方につけた。
これに対して9月11日、下諏訪衆、諏訪満隆、安国寺竺渓ら武田方の武将を後詰するため、晴信は板垣信方に軍を預けて向かわせた。
さらに9月19日に晴信は、自己の正当性を主張するため頼重の遺児の寅王丸を擁して出陣し、9月25日に信濃宮川を挟んで頼継と衝突した。
この戦いで高遠勢は頼継の実弟である高遠頼宗(蓮峯軒)ら700余人が討ち取られたという。
箕輪の戦い(みのわのたたかい)
1544年11月2日
長野県上伊那郡箕輪町
宮川の戦いで高遠頼継を破った武田晴信(信玄)は、諏訪郡を制圧した。
しかし、諏訪領奪回をねらう高遠頼継は福与城主の藤沢頼親の加勢を得て晴信に抵抗する構えをみせたのである。
天文13年(1544年)10月16日、晴信は甲府を出発し、福与城を攻略するために自ら軍勢を率いた。
諏訪に滞在した後、10月28日に有賀の伊那口に陣を構えた。
10月29日に先発隊を荒神山に派遣し、11月1日には近隣地域を放火しながら荒神山砦を攻撃した。
荒神山砦は福与城の出城であり、信濃守護の小笠原長時の援軍として草間肥前守が守っていた。
荒神山砦は約3時間で陥落し、約120人の敵兵の首を討ち取っている。
福与城に迫る武田勢に対し頼親が打って出たため、11月2日に城外の箕輪で戦いとなる。
高遠城からも高遠頼継の援軍がきたため福与城を攻略することができず、11月26日に晴信は兵を諏訪へ撤退させた。
高遠城の戦い(たかとおじょうのたたかい)
1545年4月15日 ~ 17日
長野県伊那市高遠町
天文14年(1545年)4月11日、武田晴信(信玄)は管川の戦いで敗れながらも勢力を保っていた高遠頼継を攻略するため、武田一門の穴山信友ら河内衆、小山田信有の郡内衆ら主力を率いて自ら出陣し高遠城に向かう。
福与城は小笠原長時の本拠の筑摩郡に近く支援を受けやすかったが、高遠城単独では小笠原の支援も難しかった。
武田軍は4月14日に上原城に入り、4月15日には雨の中を杖突峠を越えて高遠城を奇襲した。
この出陣は終始雨の中だったとされている。
悪天候が続いていたため高遠軍は油断し、奇襲を受けた高遠城は17日に自落し、頼継は逃亡した。
その後、晴信に従った頼継は結果的に自刃を命じられ、高遠氏は滅亡してしまう。
高遠城はその後も武田方の拠点となり、武田氏滅亡の直前の高遠城の戦いで落城するまで、伊那における武田勢力の拠点となった。
福与城の戦い(ふくよじょうのたたかい)
1545年4月20日 ~ 6月11日
長野県上伊那郡箕輪町
武田晴信(信玄)は高遠城の戦いで高遠頼継を破った後、藤沢頼親の福与城を攻撃した。
頼親は、高遠氏と同じ諏訪氏の一族で、高遠頼継と結んで晴信に抵抗し続けていたからである。
晴信は天文14年(1545年)4月20日から福与城を攻囲をし始めるも、小笠原軍の後詰が到着し、4月29日には武田側の鎌田長門守が戦死するなど苦戦している。
また、5月21日からは竜ヶ崎砦を小山田信有ら郡内衆に攻めさせたが、こちらも困難な戦いであった。
しかし、5月22日には同盟国の今川義元の援軍も到着し、6月に入ってからは板垣信方の攻撃により竜ヶ崎砦は陥落した。
砦の陥落により、福与城で武田軍の攻撃に耐えていた藤沢頼親は意気消沈し、穴山信友や小山田信有を通じて晴信との和睦を模索し始めました。
攻囲を始めてから50以上経った6月10日、頼親に降伏を勧告する。
翌11日、頼親の実弟の権次郎が人質として穴山信友に引き渡され、降伏を受け入れた頼親が城を明け渡して戦いは終わり、晴信は福与城を焼いたうえで帰陣した。
この勝利により、晴信は伊那郡を制圧した。
内山城の戦い(うちやまじょうのたたかい)
1546年5月9日 ~ 20日
長野県佐久市内山
甲斐の武田晴信(信玄)は信濃諏訪郡・伊那郡を制圧した後、信濃佐久郡への侵攻を開始した。
内山城は佐久から上野国甘楽郡に通じる要衝であり、北に位置する志賀城と共に反武田勢力の拠点であった。
関東管領・山内上杉憲政の被官である高田憲頼の所領であり、小笠原氏の庶流にあたる大井貞清が内山城を守っていた。
この先、武田氏が信濃国に深く進出するためには、佐久郡を制圧し、山内上杉氏を牽制する必要があったのである。
天文15年(1546年)5月9日、そこで晴信は内山城を攻撃する。
大井勢が頑強に防戦する様子をみた晴信は、力攻めを諦めて兵糧攻めに切り替える。
10日には水の手を取って城攻めを優位にし、14日には本丸以外を占領した。
内山城は断崖を要害としてなおも持ちこたえていたが、5月20日、貞清は抗戦の不利を悟り、ついに内山城を開城して野沢へと落ち延びていった。
晴信は同年7月に内山城の新たな城主として、守備の名手として名高い上原伊賀守虎満(小山田昌辰)を任命し防衛にあたらせた。
翌年4月16日には、晴信は使者として駒井政武(高白斎)を派遣し、大井貞清父子(貞清と父の貞隆)に対し出仕を促した。
これは内山城の籠城戦での貞清の手腕を評価したものであった。
父子はこれに応じ、5月4日に甲府に向かい、6日に出仕を果たしている。
志賀城の戦い(しがじょうのたたかい)
1547年
長野県佐久市志賀
大井一族が壊滅状態になったことで佐久郡の大半が武田氏に制圧されたが、関東管領の上杉憲政の支援を受けて志賀城の笠原清繁は抵抗を続けていた。
笠原氏は上杉氏家臣の高田氏と縁戚関係にあり、上杉氏からの援軍として高田憲頼父子が志賀城に派遣されていた。
武田晴信(信玄)は大井三河守(貞清)を先手として、天文16年(1547年)閏7月24日に城の包囲を開始した。
閏7月25日には金堀衆が城の水の手を断つことに成功。
8月6日の小田井原の戦いで上杉憲政からの後詰を撃破した晴信は、上杉方の3000の首級を城下に晒して、援軍の来ないことを知らしめた。
救援の望みが全く立たれた城兵の士気は大きく衰えたという。
8月10日、笠原清繁は城から打って出たが武田軍の総攻めにより外曲輪・二の曲輪まで焼き落とされる。
翌11日に武田軍は残る本曲輪を攻め、清繁が自刃し援将の高田憲頼父子ら300余人が討ち取られて落城した。
これにより晴信の佐久郡平定がなった。
小田井原の戦い(おたいはらのたたかい)
1547年8月6日
長野県佐久市小田井
大井一族が壊滅状態になったことで佐久郡の大半が武田氏に制圧されたが、関東管領の上杉憲政の支援を受けて志賀城の笠原清繁は抵抗を続けていた。
天文16年(1547年)閏7月24日、信濃佐久の志賀城主の笠原清繁が甲斐の武田晴信に攻囲されると、清繁を支援してきた上野平井城の関東管領である上杉憲政は志賀城に後詰を送る。
前年の河越夜戦での敗戦で大打撃を受けた関東管領家だが、依然としてその勢力は大きく、相当な兵力を動員可能だった。
8月5日、憲政の家臣の金井秀景が率いる援軍3000余は、碓氷峠を越えて信濃に入ると志賀城に向かう。
志賀城を包囲中の晴信は重臣の板垣信方・甘利虎泰・横田高松らに別動隊を編成させて迎撃に向かわせた。
8月6日、武田勢に信濃小田井原で奇襲され、上杉勢は一方的に撃破され3000余を討ち取られたという。
上田原の戦い(うえだはらのたたかい)
1548年2月14日
長野県上田市上田原
塩尻峠の戦い(しおじりとうげのたたかい)
1548年7月19日
長野県塩尻市
林城の戦い(はやしじょうのたたかい)
1550年7月15日
長野県松本市里山辺
天文17年(1548年)7月19日の塩尻峠の戦いで小笠原軍に大勝した武田晴信(信玄)は、天文19年(1550年)7月には松本平に出陣し、小笠原長時の本拠である信濃林城の攻略に乗り出した。
7月15日、林城の支城である犬甘(犬飼)城が武田勢に落とされると、深志城、岡田城、桐原城、山家城といった他の出城の城兵は逃亡し、自落する。
小笠原長時は戦わずに平瀬城に逃れ、林城は一夜の間に落城した。
これにより、筑摩郡は晴信によって平定された。
戸石城の戦い(といしじょうのたたかい)
1550年8月29日 ~ 10月1日
長野県上田市上野
平瀬城の戦い(ひらせじょうのたたかい)
1551年10月24日 ~ 25日
長野県松本市島内下平瀬
天文19年(1550年)7月の林城の戦いで武田晴信(信玄)に敗れた小笠原長時は、家臣の平瀬義兼が守る平瀬城に落ちたあと、葛尾城の村上義清を頼った。
武田晴信に対して抵抗を続ける長時と義清は、平瀬城を拠点に筑摩郡への侵入を図る。
このため晴信は、天文20年(1551年)10月に筑摩郡に出陣して平瀬城を総攻撃する。
武田勢の攻撃により平瀬城は落城となり、城主の平瀬義兼は自刃し城兵200余人が討ち取られた。
葛尾城の戦い(かつらおじょうのたたかい)
1553年4月6日 ~ 8月
長野県埴科郡坂城町
天文22年(1553年)4月、武田晴信(信玄)はついに村上義清の居城である信濃葛尾城を攻囲する。
晴信に抗戦を続けていた義清であったが、このころには配下の国衆が不利を悟り武田氏に降っており、勢威を衰えさせていたからである。
義清は晴信に抗戦していたが、配下の国衆が不利を悟り武田氏に降っており、その勢力が衰えていたため抵抗は困難であった。
4月9日には葛尾城が落城したが、22日に義清が奪還。
しかし、再び武田方に攻められ、7月末には再度落城した。
義清は8月に信濃から越後国の守護代である長尾景虎(上杉謙信)のもとに逃れた。
義清の要請を受ける形で信濃に進出した景虎と晴信が、川中島一帯で衝突することになる。
八幡・布施の戦い(やわた・ふせのたたかい)
1553年5月 ~ 8月
長野県千曲市八幡
北条城の戦い(きたじょうじょうのたたかい)
1555年2月
新潟県柏崎市北条
犀川の戦い(さいがわのたたかい)
1555年7月19日
長野県長野市青木島町大塚
駒返の戦い(こまがえりのたたかい)
1556年8月23日
新潟県糸魚市青海
上杉謙信像
弘治2年(1556年)8月、越後箕冠城主の大熊朝秀は武田晴信(信玄)の再三の誘いに応じて、長尾景虎(上杉謙信)から離反した。
もともと守護上杉氏の家臣であった大熊氏は、主家の滅亡により守護代の長尾氏に仕えており、この時期、家中内の守護上杉家派と守護代長尾家派の派閥対立が激化していた。
守護代長尾家派の本庄実乃は、幼少期の景虎の器量を見抜いて、早くから栃尾城に迎えてその側近となっていた。
景虎は、本庄実乃ら側近の進言を聞き入れ、大熊朝秀ら旧臣を要職から排除し、朝秀の進言を聞き入れなくなっていたため朝秀は離反したのである。
大熊朝秀は居城の箕冠城を捨て、越中へ退き一揆を扇動し武田軍の援軍を待った。
大熊朝秀は陸奥黒川城主である蘆名盛氏の支援を得るも、還俗して春日山城に戻った上杉謙信は、素早く軍を編成し、8月23日に庄田賢秀・上野家成らと共に越後駒返にて進撃して来た朝秀軍を打ち破った。
敗れた大熊朝秀はこののち武田氏に身を寄せ、天正10年(1582年)、田野の戦いで武田勝頼に殉じている。
今回紹介するのは、陸奥国の戦国大名である津軽為信(つがるためのぶ)です。
葛山城の戦い(かつらやまじょうのたたかい)
1557年2月15日
長野県長野市茂管
弘治3年(1557年)2月、雪で上杉軍が出陣できない時期を狙い、武田晴信(信玄)は長尾景虎(上杉謙信)に従う落合治吉が守る信濃葛山城を攻めるよう馬場信春に命じた。
葛山城は、天文24年(1555年)の犀川の戦いに際して景虎が築いた城であり、善光寺から戸隠を経て越後に通ずる重要な要衝であった。
晴信は治吉を孤立させるために一族の切り崩し、2月15日に総攻撃を開始した。
城兵は頑強に防戦したが、武田軍は水の手を断ち城に火をかけ、ほとんどの城兵が戦死した。
このとき、援将として村上氏の支族・小田切駿河守幸長が城主の落合氏と一緒に戦い籠城したが、馬場信春らの猛攻により、最終的に落城と共に討ち死にした。
落城の際、逃げ場を失った多くの女性たちが身を投げた姫谷を呼ばれる谷底からは、その後も悲痛な鳴き声が聞かれたと伝えられている。
葛山城は水が不足しており、米を水に見せかけて敵を欺く米山城の伝説も残っている。
落城の報せをうけた景虎は、ただちに信濃出陣の準備をさせたという。
上野原の戦い(うえのはらのたたかい)
1557年8月29日
長野県長野市上野
川中島の戦い(かわなかしまのたたかい)
1561年9月10日
長野県長野市小島田町周辺
この合戦に登場する武将
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武田信虎 (たけだのぶとら)
甲斐守護。甲斐を平定するが、その苛烈な政策方針に反発した嫡男・信玄によって駿河に追放された。以後は各地を放浪し、甲斐に再び戻ることはなかった。
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諏訪頼重 (すわよりしげ)
信濃の戦国大名。祖父・頼満の死後、諏訪大社大祝となる。義兄・武田信玄と戦うが敗れ、幽閉の後に自害させられた。娘は信玄の側室となり、勝頼を産んだ。
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村上義清 (むらかみよしきよ)
信濃の豪族。葛尾城主。武田信玄軍の攻撃を2度も退け、近隣に勇名を轟かす。しかし、真田幸隆の計略に敗れて居城を失い、越後の長尾景虎の庇護を受けた。
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海野棟綱 (うんのむねつね)
信濃の豪族。海野家は、信濃国小県郡海野を本拠とした古代からの豪族で、禰津家や望月家は海野家の庶流といわれる。娘は真田頼昌に嫁ぎ、幸隆を生んだ。
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武田信玄 (たけだしんげん)
甲斐守護。信虎の嫡男。苛烈な政策に反対して父を追放、当主となる。精強な騎馬軍団を率い、臨機応変の知略で織田信長を苦しめた。通称「甲斐の虎」。
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板垣信方 (いたがきのぶかた)
武田家臣。主君・信虎の追放に関わる。以後は信虎の子・信玄に仕え、各地の合戦で活躍した。上田原合戦で先鋒を務め村上義清軍と戦い、激闘の末戦死した。
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高遠頼継 (たかとうよりつぐ)
信濃の豪族。高遠家は諏訪信員を祖とする諏訪家の庶流。武田信玄と結び諏訪宗家を滅ぼす。諏訪家総領の座を欲して挙兵するも、信玄の攻撃を受けて滅んだ。
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藤沢頼親 (ふじさわよりちか)
信濃の豪族。福与城主。武田軍に敗れたあとは小笠原家を頼り、小笠原家滅亡後は諸国を放浪した。のち伊那谷に戻るが徳川家に属する豪族に攻められて滅亡。
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武田信繁 (たけだのぶしげ)
信虎の次男。文武に優れて人望も高く、兄・信玄の副将として活躍した。川中島合戦で本陣を守って奮戦、戦死した。後年「まことの武将」と高く評価される。
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穴山信友 (あなやまのぶとも)
武田家臣。武田信虎の次女を正室とする一門衆。甲斐と駿河の国境に近い河内地方を領し、主に今川家との外交において活躍した。信虎追放後は晴信に仕える。
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小山田信有 (おやまだのぶあり)
武田家臣。越中守信有の子。出羽守を称した。志賀城攻略、上田原合戦などで活躍。砥石城攻略戦で重傷を負い、死去した。葬儀には1万人が参列したという。
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今川義元 (いまがわよしもと)
駿河の戦国大名。異母兄・玄広恵探を倒して家督を継ぐ。甲相駿三国同盟を結んで後顧の憂いを断ち、上洛の途につくが桶狭間で織田信長の奇襲を受け、絶命。
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駒井高白斎 (こまいこうはくさい)
武田家臣。信虎の代から重臣として仕え信濃調略に尽力。信虎追放後も晴信の政務の内外両面を支える。家中の事跡を連ねた『高白斎記』を書き残したという。
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大井貞清 (おおいさだきよ)
武田家臣。もとは信濃の豪族で、たびたび武田に攻められ、降伏する。村上義清や上杉憲政に内通するが、再び武田に降伏。長篠の戦いに出陣し、討死した。
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笠原清繁 (かさはらきよしげ)
信濃の豪族。志賀城主。山内上杉家に属した。武田信玄の攻撃に頑強に抵抗したが援軍を武田軍に撃破され、孤立。間もなく武田軍の総攻撃を受け、自害した。
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高田憲頼 (たかだのりより)
山内上杉家臣。武田信玄の侵攻で父・遠春が討たれると家督を相続。憲頼も信玄の侵攻に対抗するも敗北し、武田家に降った。三方ヶ原の戦いで負傷し、死去。
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甘利虎泰 (あまりとらやす)
武田家臣。主君・信虎の追放に関わる。以後は信虎の子・信玄に仕え、板垣信方とともに宿老を務めた。上田原合戦で村上義清軍と激闘を展開し、戦死した。
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横田高松 (よこたたかとし)
武田家臣。甲陽五名臣の1人。近江の出身。敵の先手を打つ戦法を得意とした。「戸石崩れ」と呼ばれる村上義清との戦いで殿軍を務め、奮戦するが戦死した。
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小笠原長時 (おがさわらながとき)
信濃守護。長棟の長男。武田信玄に信濃を追われ、越後・摂津・会津など諸国を流浪する。子・貞慶が信長の下で旧領に復帰するが、戻ることなく死亡した。
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原虎胤 (はらとらたね)
武田家臣。甲陽五名臣の1人。下総千葉家臣・原家の一族。生涯で38度の合戦に参加。城攻めに長じ、また情けに厚い豪傑で「夜叉美濃」の異名をとった。
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上杉謙信 (うえすぎけんしん)
越後の戦国大名。為景の次男。上杉憲政から関東管領職を譲られ、上杉姓を名乗る。「毘」の軍旗を翻して疾駆する姿は軍神と恐れられた。通称「越後の龍」。
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北条高広 (きたじょうたかひろ)
上杉家臣。厩橋城主を務め、関東経略を担当するなど活躍した。武田信玄や北条氏康らの誘いに乗り、たびたび謀叛を起こすが、そのたびに許されて帰参した。
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大熊朝秀 (おおくまともひで)
長尾家臣。箕冠城主。主君・景虎の側近として政務に参画した。景虎の出家騒動に乗じて謀叛を起こすが敗れる。以後は武田家に仕え、甲斐天目山で戦死した。
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本庄実乃 (ほんじょうさねより)
上杉家臣。栃尾城主。主君・景虎の栃尾城入城以来、側近となる。景虎の初陣の際は補佐役として活躍した。のち景虎が当主になると、政権の中枢に参画した。
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馬場信春 (ばばのぶはる)
武田家臣。武田四名臣の1人。多くの合戦に参加し一度も負傷せず「不死身の鬼美濃」と呼ばれた。長篠合戦の際に殿軍として主君・勝頼の逃亡を助け、戦死。
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高梨政頼 (たかなしまさより)
信濃の豪族。信濃中野小館に拠る。高梨家は清和源氏で、高井郡高梨に住んだ井上盛満を始祖とする。武田信玄の北信濃侵攻軍に敗れ越後の長尾景虎を頼った。