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青田顕治(あおたあきはる)は何をした人?相馬盛胤から謀反!【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは相馬家臣・青田顕治(あおたあきはる)です。
一体何をした人なんでしょうね。
それでは見ていきましょう!
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相馬家の家臣 青田顕治
青田顕治は相馬家の家臣でした。
この相馬家は下総国北西部(現在の千葉県北西部)や陸奥国南東部(現在の福島県東部の浜通り夜ノ森以北)を領した大名です。
相馬顕胤・盛胤・義胤と武勇に長けた当主が続き北の伊達家、南の佐竹家に対して一歩も引けを取りませんでした。
特に伊達家に対しては30回以上の合戦を繰り返し、周囲の大名達が伊達家の傘下に下る中、相馬家は独立を維持し続け、伊達家と戦う意地を見せました。
青田顕治はその相馬氏の家臣として、陸奥国黒木城代を務めていました。
青田顕治が城代を務めた陸奥 黒木城
青田顕治が城代を務めた陸奥 黒木城は、1300年頃から黒木一族が支配していましたが、1542年〜1558年の伊達氏の天文の乱で黒木氏は伊達晴宗に組し、伊達稙宗方の田中城を攻めて失敗しました。
天文12年(1543年)に伊達稙宗方の相馬顕胤によって黒木氏は滅ぼされました。
※相馬顕胤は伊達稙宗の娘・屋形御前を妻にしています。
その代わりに黒木城の城代を努めたのが相馬家臣の青田信濃顕治でした。
青田顕治謀反を起こす
永禄6年(1563年)青田氏一族が伊達晴宗に呼応して離反して伊達氏に走りました。
taka
伊達晴宗は謀反を起こさせるのが上手いですね。
共に謀反した相馬中村城代・中村式部(草野直清)
相馬中村城は南北朝時代の1337年(延元2年)から、中村氏が支配していました。
相馬顕胤の死後、主家(相馬盛胤)に不満を抱き、青田顕治らと共に伊達に内通します。
この時期は相馬氏と伊達氏の抗争が激化した戦国時代真っ只中であり、相馬氏は本城である小高城に加えて、この中村城に城代を置いて伊達氏と睨み合っていました。
謀反失敗
謀反を起こしたが、相馬盛胤・義胤が素早く反応し黒木城・中村城を攻撃したため、青田顕治は戦死、中村式部は、中村城外での戦いで佐藤好信と相馬盛胤の嫡男・義胤の討伐軍に攻められて討死しました。
相馬義胤はこれが初陣です。
※青田顕治は田村清顕のもとに次男の胤治と共に落ち延びたともされています。
その後、相馬盛胤は浜通り夜ノ森以北に権勢を振るい、1563年(永禄6年)に次男の相馬隆胤が相馬中村城に入城しました。
まとめ
いかがでしたか?
先代の相馬顕胤とは馬があっていたが、息子や孫にまで仕える気はなく、青田顕治は中村式部と共に謀反するが、相馬盛胤・義胤に鎮圧されてしまいました。
勝つ人がいれば負ける人がいます。
そうならないようにしたいものです。
草野は今も相馬などと同じく、福島県浜通り地方の地名として残っているので、またそのあたりに行く機会があれば寄ってみたいな。
それでは、今後もマイナー武将列伝をアップしていくのでよろしくお願いします!