本能寺の変
本能寺の変
1582年6月
織田信長と明智光秀
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本能寺の変(ほんのうじのへん)
1582年6月2日
京都府京都市中京区元本能寺町
本能寺跡
二条御所の戦い(にじょうごしょのたたかい)
1582年6月2日
京都府京都市中京区金吹町
二条城
佐和山城の戦い(さわやまじょうのたたかい)
1582年6月5日
滋賀県彦根市佐和山町
佐和山城から見た琵琶湖
織田信長・信忠父子を殺害した明智光秀は、近江の鎮定に動き出す。
光秀は、近江山崎城主の山崎片家や若狭小浜城主の武田元明らに命じて、丹羽長秀の居城であった近江佐和山城を攻略させている。
山崎片家は明智光秀の圧力を受けて降伏していたため、佐和山城攻めに消極的な参加であった。
一方で若狭守護だった頃の勢力の回復する好機と思った武田元明は、若狭国衆を糾合して蜂起し、佐和山城を陥落させた。
光秀は、佐和山城を山崎片家に守らせていたが、山崎の戦いで光秀が敗死すると、片家は秀吉にただちに降伏して本領を安堵された。
抵抗を続けていた武田元明は、7月19日に羽柴秀吉によって処刑されている。
長浜城の戦い(ながはまじょうのたたかい)
1582年6月5日
滋賀県長浜市公園町
長浜城
山﨑の戦い(やまさきのたたかい)
1582年6月13日
京都府乙訓郡大山崎町
勝龍寺城の戦い(しょうりゅうじじょうのたたかい)
1582年6月13日 ~ 14日
京都府長岡京市勝竜寺
山崎の戦いで総崩れになり敗走した明智光秀は、勝竜寺城に入り陣容を立て直そうとした。
しかし追撃してきた神戸信孝らの大軍に勝龍寺城を囲まれてしまう。
不利を悟った明智光秀は近臣とともに夜陰に乗じて城を脱出し、居城の坂本城を目指す。
しかしその途中の小来栖で落武者狩り遭い、明智光秀は落命したと伝わっている。
6月14日の朝、主君を失った勝竜寺城は降伏開城した。
亀山城の戦い(かめやまじょうのたたかい)
1582年6月14日
京都府亀岡市内丸町
山時の戦いで明智光秀を破った神戸信孝・羽柴秀吉らは、明智一党の追討に乗り出す。
こうしたなか、山崎の戦いで先陣として活躍した摂津茨木城主の中川清秀と摂津高槻城の高山右近は、光秀の居城のひとつであった丹波亀山城を攻撃した。
城を守っていた光秀の子・光慶は、高山・中川勢の猛攻を防ぎきれず、落城の際に他の一族と共に自害した。
打出浜の戦い(うちではまのたたかい)
1582年6月14日
滋賀県大津市打出浜
本能寺の変後、安土城に入っていた明智光秀の重臣・明智秀満は、13日の夜に山崎の敗報を得ると、翌14日未明に軍勢を整えて近江坂本に向かう。
光秀の居城であった坂本城で再起を図ろうとしたためである。
しかしその途中の大津において、秀吉から近江への交通路遮断と光秀捜索として派遣された堀秀政と交戦する。
明智秀満は300余の兵が討ち取られ敗走し、坂本城に逃れた。
江戸時代に成立した『川角太閤 』では、このとき、戦いを避けた秀満が名馬にまたがって湖水渡りをしたとする。
坂本城の戦い(さかもとじょうのたたかい)
1582年6月15日
滋賀県大津市下阪本
坂本城址公園
打出浜の戦いで明智秀満を破った堀秀政は、そのまま秀満の軍勢を追撃して、6月15日に坂本城に総攻撃をかける。
主君・明智光秀の敗死を知った秀満は、譜代の家臣だけで坂本城を守備し、そのほかの家臣は城から逃れさせたという。
そして秀満は相手方に家宝を贈呈した後、光秀の正室の妻木煕子・次男の定頼・三男の乙寿丸らを刺し殺し、自分の妻も刺殺し、溝尾茂朝・明智光忠らと自身の腹を切り、煙硝に火を放って自害したとされる。
こうして安土城に次ぐといわれた光秀の居城坂本城は、灰燼に帰したのである。
この合戦に登場する武将
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明智光秀 (あけちみつひで)
織田家臣。優れた才知と教養により重用されるが、突如謀叛を起こし信長を本能寺に討つ。しかし事後調略に失敗し、山崎合戦で敗れ逃亡中に殺された。
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織田信長 (おだのぶなが)
信秀の嫡男。今川義元を桶狭間で破る。以後、天下布武を標榜して敵対勢力を次々と滅ぼした。天下統一を目前にして、明智光秀の謀叛に遭い本能寺に散った。
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織田信忠 (おだのぶただ)
信長の嫡男。松永久秀の謀叛鎮圧や甲斐平定戦などで功を立てた。信長から家督を譲られ、美濃・尾張の2国を領する。本能寺の変の際、二条御所で自害した。
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山崎片家 (やまざきかたいえ)
六角家臣。山崎城主。主君・義治と不和になり、織田信長に仕える。本能寺の変後は一時明智光秀に属すが、のち豊臣秀吉に仕え摂津三田2万3千石を領した。
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武田元明 (たけだもとあき)
若狭守護。義統の長男。朝倉義景に攻められ、越前に幽閉される。朝倉家滅亡後は若狭に帰国した。本能寺の変後は明智光秀に属すが、光秀の死後、殺された。
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阿閉貞征 (あつじさだゆき)
浅井家臣。山本山城主。主家滅亡後は織田信長に属す。信長の越前攻めに従軍した。本能寺の変後は明智光秀に属し、光秀の死後、子・貞大とともに殺された。
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京極高次 (きょうごくたかつぐ)
豊臣家臣。高吉の子。妻と妹の縁故により豊臣秀吉に仕え、近江大津6万石を領す。関ヶ原合戦では東軍に属し居城に籠城、西軍の一部を大津に足止めさせた。
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織田信孝 (おだのぶたか)
信長の三男。伊勢の豪族・神戸具盛の養子となり、家督を継ぐ。本能寺の変後、柴田勝家と結んで羽柴秀吉に対抗するが敗れ、秀吉の命により自害させられた。
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豊臣秀吉 (とよとみひでよし)
戦国一の出世頭。織田信長に仕え、傑出した人望と知略を武器に活躍し、頭角を現す。本能寺の変後、明智光秀、柴田勝家らを次々と倒し、天下に覇を唱えた。
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斎藤利三 (さいとうとしみつ)
斎藤家臣。主家滅亡後は明智光秀の家老となる。本能寺の変や山崎合戦に従軍し敗戦後に捕らえられ、斬首された。娘は将軍・徳川家光の乳母を務めた春日局。
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荒木氏綱 (あらきうじつな)
丹波の豪族。細工所城主。豪勇をもって知られた。波多野家滅亡後、明智光秀の仕官要請を拒否、代わりに子・氏清を出仕させた。氏清は山崎合戦で戦死した。
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高山右近 (たかやまうこん)
織田家臣。高槻城主。友照の子。父と同じくキリスト教に入信する。各地の合戦で活躍するが、後に改宗を拒否したため改易され、幕府の命で呂宋へ追放された。
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中川清秀 (なかがわきよひで)
池田家臣。茨木城主。和田惟政を討つなど活躍した。のち荒木村重に属す。村重の逃亡後は羽柴秀吉に属し、山崎合戦で戦功を立てた。賤ヶ岳合戦で戦死した。
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堀秀政 (ほりひでまさ)
織田家臣。各地で戦功を立てる一方、徳川家康の饗応役も務めるなど、文武の両面に才能を発揮した。本能寺の変後は豊臣秀吉に属し、一門格の待遇を受けた。
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明智秀満 (あけちひでみつ)
明智家臣。岳父・光秀のもとで本能寺の変に加担した。山崎合戦では安土城を守るが、本軍の敗報を受けて坂本城に退却し、財宝を包囲軍に譲渡して自害した。
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溝尾茂朝 (みぞおしげとも)
明智家臣。通称は庄兵衛。主君・光秀の側近を務め、厚い信頼を受けた。山崎合戦の敗北後、光秀の命で介錯を行い、光秀の首を藪中へ隠したのち、自害した。
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妻木煕子 (つまきひろこ)
明智光秀の妻。玉(ガラシャ)の母。流浪の身で貧窮した光秀を、自らの髪を亮って助けたという逸話が残る。二人は仲睦まじく、光秀は側室を置かなかった。