長尾為景の越後・越中平定
長尾為景の越後・越中平定
1507年8月
長尾為景
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天水越の戦い(あまみずごしのたたかい)
1507年8月7日
新潟県十日町市松之山水越
長森原の戦い(ながもりはらのたたかい)
1510年6月20日
新潟県南魚沼市長森新田
天水越の戦いで越後守護の上杉房能が長尾為景に殺されたため、房能の兄で関東管領である山内顕定が8,000の兵で越後に侵入した。
そのため一旦越中に逃れた為景であったが、永正7年(1510年)4月縁戚の信濃中野城主である高梨政盛らと合流し越後に戻った。
同年6月20日、越後長森原(新潟県南魚沼市)で為景・政盛勢と顕定勢が衝突し、顕定が破れた。
顕定方は長尾定明ら諸将も失い、顕定は自刃した。
越後は完全に長尾為景の支配下に置かれた。
堺川の戦い(さかいがわのたたかい)
1519年
富山県下新川郡朝日町境
新庄の戦い(しんじょうのたたかい)
1520年12月21日
富山県富山市新庄町
三分一原の戦い(さんぶいちがはらのたたかい)
1536年4月10日
新潟県上越市頸城区下三分一
天文5年(1536年)4月10日、長尾為景の支配に抵抗し上条定憲が、為景の居城である越後春日山城に攻め寄せてきた。
上条氏は、為景に討たれた上杉房能の守護上杉氏と同じ一族で、為景が傀儡とした上杉定実の実家である。
一方の為景は、姻戚にあたる信濃中野城主の高梨政頼らの加勢を得て春日山城を出陣し、長尾勢と上条勢は、保倉川にかかる三分一橋の付近一帯で激突した。
当初為景軍は不利だったものの、上条方の柿崎景家が寝返って定憲の本陣を襲撃したため、戦況は一転し上条勢は数千人が討ちとられたという。
黒滝城の戦い(くろたきじょうのたたかい)
1545年10月12日
新潟県西蒲原郡弥彦村麓
この合戦に登場する武将
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長尾為景 (ながおためかげ)
越後守護代。越後守護や関東管領を討ち国政を掌握。しかし、のちに越後守護・上杉定実と対立、上杉方国人の叛乱を招いた。出陣は百回を超えるという猛将。
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上条定憲 (じょうじょうさだのり)
越後守護・上杉定実の甥。旧上杉家勢力を糾合し挙兵。三分一原合戦において長尾軍と戦うが、数千人の兵が討ち捕らえられるという大敗北を喫し、戦死した。
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高梨政頼 (たかなしまさより)
信濃の豪族。信濃中野小館に拠る。高梨家は清和源氏で、高井郡高梨に住んだ井上盛満を始祖とする。武田信玄の北信濃侵攻軍に敗れ越後の長尾景虎を頼った。
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柿崎景家 (かきざきかげいえ)
上杉家臣。主君・謙信に「越後七郡で彼にかなう者はなし」と評された家中随一の猛将。上杉軍の主力として活躍したが織田信長への内通疑惑により殺された。
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上杉謙信 (うえすぎけんしん)
越後の戦国大名。為景の次男。上杉憲政から関東管領職を譲られ、上杉姓を名乗る。「毘」の軍旗を翻して疾駆する姿は軍神と恐れられた。通称「越後の龍」。
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黒田秀忠 (くろだひでただ)
上杉家臣。黒滝城主。主君・晴景に対し謀叛を起こすが敗れ、助命を嘆願して許される。しかし、のちに再び叛逆、越後守護・上杉定実の命で自害させられた。