菊池氏の内訌と大友氏
菊池氏の内訌と大友氏
1501年5月
菊池能運と大友義鑑
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袈裟尾の戦い(けさおのたたかい)
1501年5月20日
熊本県菊池市袈裟尾
宇土為光
WIN
菊池能運
LOSE
南北朝時代に南朝方で九州を舞台に活躍した菊池家が、応仁・文明の乱以降権威が失墜しているころの文亀元年(1501年)、当主の菊池能運は配下の隈部忠直と対立していた。
菊池能運が隈府城を去り、石貫城によっていたとこと、能運の大叔父で宇土氏を継いでいた宇土為光が菊池方の隈府城を攻撃する。
5月20日隈府に戻ろうとした菊池能運は宇土為光と衝突し、菊池重安・千田重英・西牟田重家・東重棟・溝口資清らを失い敗北した。
能運は肥前日野江城の有馬晴純を頼って落ちのびた。
高瀬の戦い(たかせのたたかい)
1503年10月
熊本県玉名市高瀬
肥前日野江城主の有馬晴純やもとは宇土為光方であった肥後人吉城主の相良長毎の協力を取りつけた菊池能運は、文亀3年(1503年)10月、守護職奪回と宇土為光の打倒のため兵を率いて肥後玉名に上陸する。
この報に接した宇土為光も、兵を率いて高瀬で菊池能運を迎え撃つが、逆に能運に撃破されてしまった。
筑後へ逃亡を図った為光は立花山城守に捕らえられ、子の重光、孫の宮満丸らとともに隈府に送還されたのち斬首されたという。
これにより菊地系宇土氏は滅び、菊池能運が肥後守護職を回復することとなった。
八代城の戦い(やつしろのたたかい)
1504年2月7日
熊本県八代市松江城町
永正元年(1504年)、肥後人吉城の相良長毎が、長らく対立していた肥後八代城の名和顕忠を攻めた。
長毎の支援により肥後守護への復帰を果たしていた菊池能運も、阿蘇惟長らとともに玉名に上陸して高瀬の戦いで菊池為光を破ったのち八代城攻めに加勢した。
名和顕忠はよく守りなかなか城は落ちなかったが、能運が守護職の立場で外交僧を派して顕忠に和睦の勧告をし、2月7日に顕忠はこれを了承した。
城を退去して相良氏へ明け渡し、能運の庇護下で益城郡木原城に入り、後に宇土城へ移った。
長毎は隈府城に赴き感謝の意を表すつもりだったが、3月25日に能運は戦傷がもとで25歳で他界して果たせず、嗣子がいなかったことが遺言で14歳の菊池政隆が養子となり後を継ぎ、肥後守となった。
石貫城の戦い(いしぬきじょうのたたかい)
1507年8月 ~ 1509年
熊本県玉名市石貫
菊池能運の死後、遺言により一族の菊池政隆が家督を継ぐ。
しかしこれに反目する家臣らが阿蘇惟長を推すと、惟長の姻戚にあたる豊後国の大友義長の支援のもと、菊池氏家臣団と結託して菊池政隆を追い、自らが菊池武経と改名して隈府城に入り肥後守を称した。
政隆は相良長毎のもとに逃れて葦北郡で保護されたが、長毎は大友氏を恐れてこれを助力しなかったので、政隆は筑後国に逃れた。
武経は大友重治に依頼して政隆を討ってもらおうとしたので、相良氏には双方から加勢の依頼があったがことになる。
逃れた政隆は、永正4年(1507年)8月、肥後石貫城で抵抗を始めたが、大友氏の加勢を得た武経に囲まれる。
永正6年(1509年)閏8月、政隆は捕縛され、久米の安国寺で自刃させられた。
大友館の変(おおともやかたのへん)
1550年2月12日
大分県大分市顕徳町
隈本城の戦い(くまもとじょうのたたかい)
1550年8月9日
熊本県熊本市古城町
この合戦に登場する武将
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有馬晴純 (ありまはるずみ)
肥前の豪族。日野江城主。島原半島を中心に勢力を拡大、有馬家最大の版図を築く。また大村家に次男・純忠を入嗣させて和睦、安定した支配体制を確立した。
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阿蘇惟長 (あそこれなが)
阿蘇大宮司。惟憲の長男。菊池家臣らに擁立されて菊池家を継ぐが、大友家と対立して追放される。阿蘇大宮司職を巡り弟・惟豊と戦うが敗れ、薩摩に逃れた。
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大友義鑑 (おおともよしあき)
大友家20代当主。大内家ら周辺諸国と争い、勢力を拡大する。嫡男・義鎮の廃嫡を画策したため二階崩れの変が勃発。家臣に斬られて重傷を負い、死去した。
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佐伯惟教 (さいきこれのり)
大友家臣。二階崩れの変の際は、主君・宗麟を奉じて変を鎮圧した。一時西園寺家に仕えるが、のち帰参。宗麟の命で日向に進出するが、耳川合戦で戦死した。