武将名鑑【信長の野望 新生】
真田信吉(さなだのぶよし)

真田信吉(さなだのぶよし)
真田信吉 の能力値 | |||||
---|---|---|---|---|---|
統率
![]() 出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
56 (1030 位) | ||||
武勇
![]() 出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
58 (903 位) | ||||
知略
![]() 出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
63 (744 位) | ||||
政務
![]() 城の収入に影響する。 |
55 (1051 位) | ||||
合計 | 232 (796 位)2201人中 |

その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
誕生年 | 1595年 | 信之の長男。大坂の陣に参加し、毛利勝永と戦うが敗れる。戦後上野沼田3万石を領すが父に先立ち病死。遺領は弟の信政と信吉の次男・信利に分割された。 | |||||||||
死亡年 | 1635年 | ||||||||||
主義
![]() 革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
中道 | ||||||||||
戦法
![]() 合戦で使える特殊な技。 |
|||||||||||
同討 | 敵部隊の兵力減少 |
シナリオ | |||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 未登場 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 未登場 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 未登場 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 未登場 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 未登場 |
真田信吉が登場する合戦
-
天王寺口の戦い [大坂夏の陣]
1615年5月7日
大阪府大阪市天王寺区茶臼山町一帯
徳川家康 (73)
本多忠朝 (33)
秋田実季 (39)
浅野長重 (27)
松下重綱
真田信吉 (20)
六郷政乗 (48)
植村泰勝
榊原康勝 (25)
小笠原秀政 (46)
仙石忠政 (37)
諏訪忠恒 (20)
保科正光 (54)
丹羽長重 (44)
酒井家次 (51)
松平康長 (53)
松平忠良 (33)
松平成重
松平信吉
内藤忠興 (23)
水谷勝隆 (18)
稲垣重綱 (32)
六郷政乗 (48)
徳川義直 (14)
徳川頼宣 (13)
小笠原忠脩
丹羽秀重
諏訪忠澄
松平忠直 (20)
水野勝成 (51)
浅野長晟 (29)
西尾宗次
本多忠純 (29)
WIN
大阪の陣の最終決戦となった天王寺口の戦い。
大阪城への総攻撃を決定した徳川家康は、本多忠勝の次男・本多忠朝を先鋒の大将に命じ、秋田実季、浅野長重、松下重綱、真田信吉、六郷政乗、植村泰勝ら計5,500を置く。
二番手には榊原康勝を大将とし、小笠原秀政、仙石忠政、諏訪忠恒、保科正光、丹羽長重ら計5,400。
三番手に酒井家次を大将とし、松平康長、松平忠良、松平成重、松平信吉、内藤忠興、水谷勝隆、稲垣重綱、六郷政乗ら計5,300。
その後方に徳川家康の本陣15,000を置いた。さらに徳川義直15,000、徳川頼宣が本陣後備として布陣し天王寺口から大坂城を攻める。
これに対し豊臣方は、真田信繁・大野治房・明石全登・毛利勝永らと共に最後の作戦を立案する。
それは右翼として真田隊、左翼として毛利隊を四天王寺・茶臼山付近に布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して家康の本陣を孤立させた上で、明石全登の軽騎兵団を迂回・待機させ、合図と共にこれを急襲・横撃させるというものだった、とされている。これにより毛利勝永は息子の毛利勝家・樫井昌孝・山本公雄・竹田永翁・浅井長房ら4,000などが天王寺口を固めていた。
正午頃、豊臣方大将の毛利勝永の寄騎が先走り、物見に出ていた幕府方先鋒大将・本多忠朝勢を銃撃します。
これをきっかけに合戦が始まると、戦場は混乱に陥った。毛利勢は正面から突入してきた忠朝を討ち取り、幕府方先鋒本多勢を壊滅させる。
本多忠朝は大坂冬の陣で、酒を飲んでいたために不覚をとってしまったため、汚名返上のため戦功が欲しかったのでしょう。
本多勢の救援をしようと小笠原秀政、小笠原忠脩、諏訪忠恒らが駆けつけるも、勢いづく毛利勢に追随する木村重成残兵である木村宗明や湯浅正寿らの備による側面からの攻撃を受け忠脩は討死、秀政は重傷を負い、戦場離脱後に死亡した。
続いて木村宗明らの備はその後、丹羽長重隊に突撃した。
丹羽長重隊の老兵丹羽秀重の備は「先の戦(大阪夏の陣における若江の戦い)で因縁のある」木村宗明の備に全身全霊の怒涛の突撃を見せたが、秀重は討ち死にし毛利勢に突破される。
その後も丹羽長重隊は秀重の亡骸を守る為、先鋒を務めたが、先鋒に残っていた先鋒備は丹羽長重隊などの数少ない隊備の手勢のみであった。二番手大将・榊原康勝以下、仙石忠政、諏訪忠澄たちの軍勢も暫く持ち堪えるものの毛利勢に先鋒大将・本多忠朝を打ち取られ木村宗明備に小笠原忠脩を打ち取られたうえに丹羽長重隊が突破された混乱に巻き込まれ壊乱。
毛利勝永は、敗兵が雪崩込んだ三番手大将・酒井家次の部隊も撃破し、遂には家康の本陣に突入するという活躍を見せた。真田信繁は指揮下の兵を先鋒、次鋒、本陣等数段に分け、天王寺口の先鋒大将・松平忠直勢と交戦していたが、天王寺口・茶臼山の一番手総大将・水野勝成勢の救援に気づかずに松平勢は真田勢の陣を抜くと大坂城に直進し、入れ違う形で真田勢は家康本陣方向へ進出した。
さらに浅野長晟が寝返ったと虚報を流して幕府方の動揺を誘い、これに乗じて毛利勢に苦戦する家康本陣へ近づき3回にわたって突撃を繰り返した。これらの攻勢によって家康本陣は混乱状態に陥った。
家康の本陣が攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来2度目であり、家康は武田家ゆかりの武将に二度馬印を倒されたこととなる。
倒れたことのなかった家康の馬印を旗奉行は倒した上に家康を見失い(後に旗奉行は詮議され、閉門処分となる)、騎馬で逃げる(一説には平野方面に逃げたともいわれる)家康自身も自刃を覚悟するも、文殊院勢誉に制止されたという(実際には勢誉はこの2年前に死去しているので俗説)。
しかし豊臣方の損害も決して少なくなく、数で勝る幕府方に次第に追い詰められていった。
水野勝成の性格を知る徳川家康はこれに先立って「将であるから昔のように自ら先頭に立って戦ってはならない」と厳しく命じていたが、戦況を重く見た一番手総大将・水野勝成大和路勢は勝成が自ら一番槍を取った、彼の救援に天王寺口・茶臼山の一度は崩された諸将の軍勢も陣を立て直して豊臣方を側面から攻め立て始めた。大野治長は秀頼の出馬は今しかないと考え、自ら言上しようと大坂城に引き返した。
しかしこの時、治長は秀頼の馬印を掲げたまま帰ろうとしたため、退却と誤解した大坂方の人々の間に動揺が走り、落胆が広がった。真村信繁も3度の突撃の後、13の傷を受け疲労のため動けず、四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で木にもたれて傷つき疲れた身体を休ませていたところを、松平忠直配下の鉄砲組頭である西尾宗次に発見され、「この首を手柄にされよ」との最後の言葉を残して討ち取られた。
豊臣方で唯一組織的な戦闘を続けていた毛利勝永や大野治房も真田勢が壊滅すると四方から集中攻撃を受けることになり大阪城内に撤退した。
別働隊の明石全登は天王寺口の友軍が敗れたことを知ると天王寺口・茶臼山の水野勝成勢に突撃した後姿を消した。
勝ちに乗した徳川勢が城内への侵入を果たし、大坂城は落城することになった。
翌5月8日、豊足秀頼は毛利勝永の介錯で自刃し、秀頼の子で8歳の国松丸は、京都六条河原で斬首されている。大坂の陣をもって150年ほどに渡って続いてきた戦乱の時代が終わり、江戸幕府は元号を元和と改めた。
これを元和偃武という。偃武とは武器を武器庫に収めることを指しており、すなわち平和になったという意味である。
おすすめ記事一覧
-
歴史イベント
【新解釈】本能寺の変の真実!光秀が謀反を決意した真の動機とは?
-
ランキング
戦国武将のかっこいい異名・あだ名ランキングTOP10
-
ランキング
障害が残るほどの苦悩、遺書を残し死を覚悟した懺悔など黒田官兵衛の大ピンチTOP3!!
-
ランキング
織田信長を裏切り窮地に陥れた戦国武将ランキングTOP5
-
戦国時代の逸話
豊臣秀吉の指は6本あった?その真相に迫る【戦国時代の逸話】
-
どうする家康
「無」を掲げた徳川四天王・榊原康政(さかきばらやすまさ)とは?【マイナー武将列伝】
-
ランキング
戦国武将の変な名前ランキング!!
-
戦国時代の逸話
直江兼続が家康に送った「直江状」とは?痛烈な皮肉がたーぷり【戦国時代の逸話】
-
戦国時代の暮らし
戦国武将たちのセックス事情はどんなだった?【戦国時代の暮らし】
-
どうする家康
なぜ豊臣家に出奔したのか!?徳川家康の右腕であった石川数正(いしかわかずまさ)とは?【メジャー武将列伝】
-
どうする家康
家康から最も信頼された同級生・平岩親吉(ひらいわちかよし)とは?【マイナー武将列伝】
-
どうする家康
家康につかなかったため滅ぼされた三河武士、鵜殿長照(うどのながてる)とは?【マイナー武将列伝】
-
メジャー武将列伝
家康はどんな人質時代を送っていたのか?【メジャー武将列伝】
-
メジャー武将列伝
家康はなぜ松平から徳川に改姓したのか?【メジャー武将列伝】
-
戦国時代の女性
徳川家を苦しめた妖刀「村正」【戦国時代の逸話】
-
マイナー武将列伝
鳥居忠吉(とりいただよし)は何をした人?息子と共に三河武士の鑑と称された男【マイナー武将列伝】
-
蟹江七本槍
大久保忠世(おおくぼただよ)は何をした人?徳川家臣No.5の実力は?【マイナー武将列伝】