武将名鑑【信長の野望 新生】
神代長良(くましろながよし)
神代長良(くましろながよし)
神代長良 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
51 (1283 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
39 (1832 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
55 (1204 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
67 (480 位) | ||||
合計 | 212 (1231 位)2201人中 |
神代長良 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
別名 | 神代勝良 | ||||
法号・戒名 | 梁山宗異 三瀬山長谷山観音禅寺 | ||||
父 | 神代勝利 | ||||
母 | 副島信告の娘 | ||||
配偶者・正室 | 鹿江兼明の娘 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1537年 | 少弐家臣。勝利の嫡男。父の隠居により家督を継ぐ。父の死後は龍造寺家と和睦し、家臣となった。のちに小川信俊(鍋島直茂の弟)の子・家良を養子とした。 | |||||||||
死亡年 | 1581年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
保守 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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罵声 | 敵部隊の防御低下 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 元服前 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 17 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 24 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 34 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 死亡 |
神代長良が登場する合戦
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川上の戦い [少弐氏の滅亡と龍造寺氏]
1561年9月13日
佐賀県佐賀市大和町川上
永禄2年(1559年)に少弐冬尚が滅ぼされたあとも、神代勝利は龍造寺隆信に抵抗を続けていた。
龍造寺隆信は、前回の晴気城の戦いでは地形を利用され神代勝利に大敗していたため、勝利を平野部に誘き出す必要があると考え、日時と場所を定めて決戦に及ぶという挑戦状を突きつけた。
勝利はこれを受け入れ、永禄4年(1561年)9月13日に肥前川上辺で決戦することが決定した。
この川上峡合戦で、八戸宗場の加勢を得た神代軍は金敷城山を背に、4つの部隊に分かれて迎撃態勢を敷いた。
仁王門(本陣) : 神代勝利 (兵1,200人)
宮原口 : 神代長良(勝利嫡男)(兵3,000人)
宮の前大門 : 神代種良(勝利次男)(兵1,300人)
都人来原 : 神代周利(勝利三男)、 八戸宗暘(兵1,500人)まず、宮原口を守る神代長良と龍造寺隆信の本隊が激突し、「千騎が一騎になる」と評されるほどの大乱戦となった。
また、宮の前大門では神代種良と龍造寺軍の納富信景の部隊が交戦し、攻防が続いた。
均衡が破れたのは、都人来原を守る神代周利の部隊と龍造寺軍が交戦状態に入った時で、神代周利の部隊で謀反人が現れ周利が斬殺されるという事態が起きた。
新参者が多かった周利の部隊は恐慌状態に陥って壊滅し、龍造寺軍は勢いに乗じて宮の前大門の戦線に突入し、種良の部隊をも壊滅させ、龍造寺軍は一気に優勢に立った。
川上峡合戦は龍造寺隆信の大勝に終わり、宗陽が負傷するなど神代勢に壊滅的な打撃を与え、山内を制圧した。
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千布城の戦い [少弐氏の滅亡と龍造寺氏]
1565年4月24日
佐賀県佐賀市金立町千布
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村中城の戦い [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]
1569年3月 ~ 5月
佐賀県佐賀市城内
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今山城の戦い [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]
1579年3月
福岡県大牟田市今山
天正6年(1578年)の高城河原の戦いに敗れた豊後の大友宗麟の勢威が衰えると、これを好機ととらえた龍造寺隆信は本格的に筑後への侵攻を図った。
天正7年(1579年)3月、隆信は23000の大軍を率いて筑後に出陣した。
まず筑後鷹尾城の田尻鑑種が降伏し、次に筑後今山城主の三池鎮実を撃つため進軍した。田尻鑑種と三池鎮実は姻戚関係にあったので、人質を出して降伏するように勧めたが鎮実はこれを拒否した。
龍造寺軍は周辺の青田を刈り取ると、今山城に攻めかかった。
先陣は田尻鑑種とし、二陣蒲池、三陣鍋島、四陣神代、五陣横岳、さらに筑紫広門、豊饒鎮連らの大軍が一斉に突撃した。
三池鎮実以下の城兵は、龍造寺の大軍を相手によく防戦し、早朝に開始された戦いは十時間以上におよんだ。
夕刻になって大雨となり、龍造寺軍はひとまず兵を引いた。
この夜、これ以上の抵抗は無理と悟った三池鎮実以下の城兵は、風雨にまぎれて逃亡し戦いは龍造寺軍の勝利に終わった。
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