武将名鑑【信長の野望 新生】
浅井亮政(あざいすけまさ)
浅井亮政(あざいすけまさ)
浅井亮政 の能力値 | |||||
---|---|---|---|---|---|
統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
83 (84 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
73 (290 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
67 (569 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
62 (699 位) | ||||
合計 | 285 (209 位)2201人中 |
浅井亮政 の基礎データ | |||||
---|---|---|---|---|---|
性別 | 男 | ||||
別名 | 勝政 | ||||
仮名・通称 | 新三郎 備前守 | ||||
法号・戒名 | 救外寺英徹高月 徳勝寺殿前備州太守救外宗護大居士 | ||||
父 | 浅井直種 | ||||
養父 | 浅井直政 | ||||
母 | 赤尾教政の娘 | ||||
配偶者・正室 | 浅井蔵屋(浅井直政の娘) | ||||
側室1 | 尼子馨庵 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
誕生年 | 1491年 | 近江の戦国大名。小谷城主。はじめ京極家に仕えたが、主家の内紛に乗じて勢力を拡大する。朝倉家の援助を受けて六角定頼の軍を撃退し、江北に覇を唱えた。 | |||||||||
死亡年 | 1542年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
保守 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
|||||||||||
一所懸命 | 同一城に属す全郡で領内行動の集落掌握速度が上昇 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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用心 | 自部隊の防御上昇 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 死亡 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 死亡 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 死亡 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 死亡 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 死亡 |
浅井亮政が登場する合戦
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尾上城の戦い [京極氏・浅井氏と六角氏]
1523年3月9日
滋賀県長浜市湖北町尾上
上坂家信の死後、その子である信光の補佐を受けていた京極高清は、信光が推す次男の高吉を後継者として選択した。
しかし、高清の長男である高峰(高延・高広)を後継者として推す北近江の国人領主の浅見貞則・浅井亮政・三田村忠政・堀元積・今井越前らは、大永3年(1523年)3月9日、高峰への家督継承を求めて反上坂信光の一揆を結成し兵を起こしまた。
信光はこの情勢を察知し、軍兵を今浜城に集め、尾上城に近い安養寺を拠点として軍勢を配したが、貞則の居城である尾上城に集結していた一揆勢に敗れた。
この敗北により、信光は自らの居城である今浜城に敗走した。
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尾上城の戦い [京極氏・浅井氏と六角氏]
1523年3月9日
滋賀県長浜市湖北町尾上
上坂家信の死後、その子である信光の補佐を受けていた京極高清は、信光が推す次男の高吉を後継者として選択した。
しかし、高清の長男である高峰(高延・高広)を後継者として推す北近江の国人領主の浅見貞則・浅井亮政・三田村忠政・堀元積・今井越前らは、大永3年(1523年)3月9日、高峰への家督継承を求めて反上坂信光の一揆を結成し兵を起こしまた。
信光はこの情勢を察知し、軍兵を今浜城に集め、尾上城に近い安養寺を拠点として軍勢を配したが、貞則の居城である尾上城に集結していた一揆勢に敗れた。
この敗北により、信光は自らの居城である今浜城に敗走した。
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今浜城の戦い [京極氏・浅井氏と六角氏]
1523年3月12日
滋賀県長浜市公園町
大永3年(1523年)3月9日の尾上城の戦いで、京極高峰(高延・高広)を支持する浅見貞則・浅井亮政らに敗れた上坂信光は、自らの居城である今浜城に逃げ戻った。
しかし、今浜城も追撃してきた貞則・亮政らに包囲され、激しい攻撃を受けた。
結果的に、3月12日に城は攻め落とされた。
辛うじて今浜城から脱出した信光は刈安尾城に逃れたものの、ここでも一揆勢に攻められ、京極高清の上平寺城も一揆勢による焼き討ちを受けた。
高清と高吉父子と上坂信光は尾張国へと落ち延びていくこととなった。
一揆勢は刈安尾城に留まっていた京極高峰を支持し、神照寺に入り、そして尾上城に彼を迎えることとなった。
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小谷城の戦い [京極氏・浅井氏と六角氏]
1525年7月 ~ 8月28日
滋賀県長浜市湖北町伊部
大永3年(1523年)の今浜城の戦い後、協力して京極高清の長男・高広を後継に推した浅見貞則と浅井亮政との間で対立が始まる。
浅見貞則の専横な振る舞いが強くなり、国人領主らの反感を招くようになったためだ。
大永5年(1525年)5月、追放した上坂信光と和睦した亮政は、尾張から京極高清と高吉父子を自らの居城である小谷城に迎え入れ、権力の掌握を図った。
同年7月、六角定頼によって小谷城が攻撃された亮政は、越前の朝倉教景の援軍を受けて撃退することに成功すると、8月28日には教景の仲介により、亮政と定頼が和睦することになった。
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内保河原の戦い [京極氏・浅井氏と六角氏]
1528年8月3日
滋賀県長浜市内保町
大永3年(1523年)3月の今浜城の戦いで浅井亮政に敗北した上坂信光は、大永5年(1525年)5月に亮政と和睦して京極高清・高吉父子も近江に復帰した。
大永8年(1528年)8月に上坂信光は南近江の六角定頼と手を結び挙兵する。
六角氏はかねてより北近江狙っていたので、これ幸いと上坂信光を支援した。これに対し亮政は京極高広を擁して、内保河原で京極高吉・上坂信光を破った。
しかしこの戦いで浅井氏と六角氏との争いが激化していった。
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箕浦の戦い [京極氏・浅井氏と六角氏]
1531年4月6日
滋賀県米原市箕浦
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佐和山城の戦い [京極氏・浅井氏と六角氏]
1538年3月27日 ~ 5月23日
滋賀県彦根市佐和山町
佐和山城から見た琵琶湖
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国友河原の戦い [京極氏・浅井氏と六角氏]
1538年9月12日
滋賀県長浜市国友町
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