武将名鑑【信長の野望 新生】
河田長親(かわだながちか)
河田長親(かわだながちか)
河田長親 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
72 (320 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
44 (1626 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
80 (153 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
81 (124 位) | ||||
合計 | 277 (256 位)2201人中 |
河田長親 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
幼名 | 岩鶴丸 | ||||
父 | 河田元親 | ||||
配偶者・正室 | 北条高広の娘 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1540年 | 上杉家臣。近江の出身。上杉謙信が上洛した際に召し出され、家臣となる。上杉家の北陸攻略に大きく貢献した。のちに松倉城主となり、織田信長軍と戦った。 | |||||||||
死亡年 | 1581年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
保守 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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自衛 | 自勢力内では自部隊の防御上昇 | ||||||||||
地の利 | 合戦で積極的に要所を襲撃 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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治癒 | 自部隊の兵力回復 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 元服前 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 元服前 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 21 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 31 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 死亡 |
河田長親が登場する合戦
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富山城の戦い [上杉謙信の越中平定]
1571年3月15日 ~ 18日
富山県富山市星井町
富山城
永禄12年(1569年)の松倉城の戦いに敗れた椎名康胤は、一向一揆とともに上杉謙信に対する抵抗を続けていた。
元亀2年(1571年)3月、謙信は2万8千の大軍で越中に侵攻し、数年に渡り頑強に抵抗してきた松倉城を落城させ、その後康胤の属城となっていた富山城を攻囲する。
このとき康胤は後詰を富山城に送ったが、謙信配下の越中魚津城将である河田長親に阻まれ、城を守っていた康胤の家臣の飯坂隼人佐らがことごとく討死して富山城は落城してしまう。
上杉軍は新庄城・守山城等、多数の城を攻め落とし、越中の東部から中部、さらに西部にまで破竹の勢いで進撃し、椎名康胤や一揆勢を圧倒した。
こののち謙信は富山城を河田長親に守らせた。
-
五福山の戦い [上杉謙信の越中平定]
1572年6月15日
富山県富山市呉羽町
上杉謙信が越中征伐の真っ只中の元亀3年(1572年)6月、謙信に逐われた椎名康胤と神保長職の子・長城は、瑞泉寺の門徒ら一向一揆の加勢を得て、謙信の属城である越中日宮城に迫った。
日宮城将の神保覚広・小島職鎮は、上杉氏の越中支配の拠点であった新庄城の鰺坂長実に救援を要請する。
これを受けた鰺坂長実は、魚津城の河田長親と協議し山本寺定長とともに援軍を送り、6月15日神通川を越え日宮城から10キロほど東に位置する婦負郡の五福山で康胤・長城の一揆勢を迎え撃つが、衆寡敵せず上杉勢が敗れ、新庄城に敗走した。
新庄城へ退却する途中の神通川渡し場において一揆勢の猛追を受け、大敗を喫した。 -
月岡野の戦い [織田信長の北陸平定]
1578年10月5日
富山県富山市月岡
天正6年(1578年)3月、上杉謙信が急死して御館の乱がおきると、これを好機ととらえた織田信長は美濃加治田城主で織田信忠付の斎藤利治を率いる美濃・尾張の兵を送った。
斎藤道三の末子とされる利治は、姉小路氏の支援を受けて飛騨から越中に侵攻する。
10月5日、上杉氏の家臣として越中を支配下におく今和泉城の河田長親を月岡野で破る。
まず津毛城を攻略すると神保長住勢に守備を任せ、さらに北進して今泉城を攻めた。
しかし今泉城は堅牢であったため、夜半になり撤退を開始。
撤退する織田軍に対し、河田長親・椎名小四郎(長尾景直)率いる上杉軍は城を打って出て織田軍を追撃した。
斎藤利治は地形の複雑な月岡野まで上杉軍を引きつけ、一挙に逆襲に転じ首級360を討ち取り、3000人以上捕捉した。
これにより越中西部を制圧した信長は、斎藤利治に感状を与え加増を行って戦功を称え、越中を逐われていた神保長住を富山城に入れた。
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小出城の戦い [織田信長の北陸平定]
1581年3月9日 ~ 24日
富山県富山市水橋小出
天正8年(1580年)、織田信長は上杉景勝の軍勢に対峙するため、家臣の佐々成政を越中に遣わし、富山城の神保長住を救援させていた。
翌天正9年(1581年)2月、越中国の平定を進めていた佐々成政・神保長住が上洛した間隙をぬって景勝の家臣で越中国松倉城主の河田長親が成政の属城である越中小出城に攻撃を仕掛けてくる。
小出城を守る成政の家臣・久世但馬守が防戦に努めている間に成政は急ぎ救援に向かう。
上杉方が沼地に手こずるなどしている間に成政らが帰還。
長親は小出城の包囲を解いて越中松倉城に兵を退いた。
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