武将名鑑【信長の野望 新生】
織田信孝(おだのぶたか)
織田信孝(おだのぶたか)
織田信孝 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
57 (966 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
67 (495 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
35 (2047 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
54 (1104 位) | ||||
合計 | 213 (1210 位)2201人中 |
織田信孝 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
別名 | 神戸三七郎 神戸信孝 | ||||
仮名・通称 | 三七 三七郎 三七信孝 | ||||
法号・戒名 | 昭雲院殿高厳徳公 龍厳徳公大禅定門 | ||||
父 | 織田信長 | ||||
養父 | 神戸具盛 | ||||
母 | 坂氏 | ||||
配偶者・正室 | 鈴与姫(神戸具盛の娘) |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1558年 | 信長の三男。伊勢の豪族・神戸具盛の養子となり、家督を継ぐ。本能寺の変後、柴田勝家と結んで羽柴秀吉に対抗するが敗れ、秀吉の命により自害させられた。 | |||||||||
死亡年 | 1583年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
中道 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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作事 | 城下施設の建設速度上昇 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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急襲 | 敵部隊の兵力減少 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 未登場 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 未登場 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 元服前 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 元服前 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 25 |
織田信孝が登場する合戦
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神戸城の戦い [織田信長の伊勢平定]
1568年2月
三重県鈴鹿市神戸
永禄10年(1567年)の伊勢侵攻に失敗した織田信長は、翌永禄11年(1568年)2月、再び4万の軍勢で北伊勢に侵入して神戸具盛が守る神戸城を包囲する。
不利を悟った具盛は、一人娘に信長の三男である三七(織田信孝)を婿養子として迎えるという条件で和睦した。
以後三七は神戸三七郎と名乗っている。
養子入りに際しては、乳兄弟の幸田彦右衛門が傳役として付けられ、信長家臣からは岡本太郎右衛門・坂仙斎・三宅権右衛門・坂口縫殿助・山下三右衛門・末松吉左衛門らが信孝付きとして付けられた。
神戸具盛は養子となった三七郎を冷遇したため信長の勘気にふれて、元亀2年(1571年)に信長に命じられた蒲生賢秀により近江日野城に幽閉させられると、三七郎に神戸氏の家督を譲るように強制された。
神戸氏家老の高岡城主である山路弾正らはこれに激しく抗議したが、謀反の疑いをかけられ自害に追い込まれた。
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孝子峠の戦い [織田信長の紀伊平定]
1577年2月22日
大阪府泉南郡岬町
雑賀衆
LOSE
天正五年(1577年)2月22日、志立に到着した織田軍は、海側を行く浜手と内陸を行く山方の2手に軍勢を分け、進撃していった。
浜手を進む織田勢には、織田信長の子である織田信忠・北畠 (織田) 信雄・神戸(織田)信孝のほか、明智光秀・滝川一益・丹羽長秀・長岡 (細川)藤孝・筒井順慶らが主力として加わり、和泉山脈を横切る孝子峠に向かう。
この孝子峠は、和泉と紀伊との国境に位置している重要な地点であったため、雑賀衆はここで織田勢を迎え撃とうとしたのである。
しかし織田勢の主力に撃破された雑賀衆は退き、その勢いに乗った織田勢は峠を下って中野城に向かった。
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金剛峯寺の戦い [織田信長の高野山攻め]
1581年8月25日 ~ 10月28日
和歌山県伊都郡高野町
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山﨑の戦い [本能寺の変]
1582年6月13日
京都府乙訓郡大山崎町
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勝龍寺城の戦い [本能寺の変]
1582年6月13日 ~ 14日
京都府長岡京市勝竜寺
山崎の戦いで総崩れになり敗走した明智光秀は、勝竜寺城に入り陣容を立て直そうとした。
しかし追撃してきた神戸信孝らの大軍に勝龍寺城を囲まれてしまう。
不利を悟った明智光秀は近臣とともに夜陰に乗じて城を脱出し、居城の坂本城を目指す。
しかしその途中の小来栖で落武者狩り遭い、明智光秀は落命したと伝わっている。6月14日の朝、主君を失った勝竜寺城は降伏開城した。
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岐阜城の戦い [賤ヶ岳の戦い]
1582年12月20日 ~ 29日
岐阜県岐阜市大宮町
岐阜城
三法師は安土城へ移ることが清洲会議で決定していたが、羽柴秀吉と対立する信孝は三法師を岐阜城から離さず、12月2日に1万人余の兵を擁して岐阜城で挙兵した。
これを謀反の口実として、秀吉は2万余の軍勢でただちに出陣。
丹羽長秀、池田恒興ら諸将の多くも秀吉を支持して加勢した。信孝と結ぶ越前北庄城の柴田勝家は積雪のため援軍を送ることができないまま、秀吉は長浜城の柴田勝豊を降し、信孝の岐阜城を包囲した。
依然として美濃を掌握しきれていなかった信孝は伊勢の滝川一益の勧めに従い、12月20日に三法師を秀吉に渡すとや母の坂氏や乳母・娘らを人質として秀吉に降伏した。
秀吉は12月29日に包囲を解く。この結果、東美濃で独立的行動をとっていた森長可・稲葉一鉄や与力の氏家行広らも信孝側を離れ、家老の岡本良勝・斎藤利堯も秀吉側に寝返った。
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岐阜城の戦い [賤ヶ岳の戦い]
1583年4月25日
岐阜県岐阜市大宮町
金華山(岐阜城)から眺める岐阜市の街並み
天正10年(1582年)12月の岐阜城の戦いで羽柴秀吉に降伏していた神戸(織田)信孝は、柴田勝家が賤ヶ岳に出陣したとの報に接して再び挙兵した。
これにより安土に送られていた信孝の母と妻子6人が処刑されてしまう。
その後、滝川一益を攻撃していた兄の北畠信雄に岐阜城を包囲され、4月23日に北庄城の戦いで柴田勝家を失うと、28日にやむなく開城した。
一説では、降伏したのではなく信雄が信孝を欺いて和議を持ちかけ、岐阜城を開城させたという。
信孝は長良川を下って尾張国知多郡に奔り、知多半島の内海大御堂寺(野間大坊)に送られ、自刃に追い込まれることになった。
信孝は切腹の際、腹をかき切って腸をつかみ出すと、床の間にかかっていた梅の掛け軸に臓物を投げつけたといわれている。
織田信孝が登場する記事一覧
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