武将名鑑【信長の野望 新生】
織田信包(おだのぶかね)
織田信包(おだのぶかね)
織田信包 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
49 (1376 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
51 (1275 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
42 (1864 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
54 (1104 位) | ||||
合計 | 196 (1597 位)2201人中 |
織田信包 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
別名 | 信良 信兼 信廉 | ||||
仮名・通称 | 三十郎 | ||||
法号・戒名 | 老犬斎 真珠院殿心巌安公大居士 | ||||
父 | 織田信秀 | ||||
養父 | 長野藤定 | ||||
母 | 土田御前 | ||||
配偶者・正室 | 長野藤定の娘 | ||||
側室1 | 神戸長盛の娘 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1543年 | 信秀の四男。越前攻めや石山本願寺攻めに参戦した。本能寺の変後は豊臣秀吉に仕え、秀吉の子・秀頼の傅役を務めた。娘は秀吉の側室となり、寵愛された。 | |||||||||
死亡年 | 1614年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
中道 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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激励 | 自部隊の攻撃上昇 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 元服前 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 元服前 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 18 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 28 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 40 |
織田信包が登場する合戦
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大河内城の戦い [織田信長の伊勢平定]
1569年8月26日 ~ 10月3日
三重県松阪市大阿坂町
織田信長 (35)森可成 (46)坂井政尚
蜂屋頼隆 (35)佐久間信盛 (42)豊臣秀吉 (32)氏家卜全 (56)安藤守就 (46)織田信包 (26)滝川一益 (44)丹羽長秀 (34)稲葉一鉄 (54)池田恒興 (33)織田信雄 (11)WIN
1569年(永禄12年)8月20日、上洛戦を終えて美濃に戻っていた信長は、伊勢攻略のため総勢7万といわれる大軍で岐阜を出陣。
23日、事前に送り込んだ滝川一益が寝返らせすことに成功した木造城に着陣。北畠軍は天険の要害である大河内城やその支城に籠城しており、大河内城の本軍は約8,000だったと言われている。
織田軍の木下秀吉は史上の阿坂城を落城させたり、滝川一益は多芸城を焼き討ちにしたりと織田軍が優勢となるも、要害である大河内城はなかなか落とせなかった。
そこで兵糧攻めを行い、北畠家は降伏。
という北畠家に不利な条件で和睦した。
-
戸木の戦い [小牧・長久手の戦い]
1584年8月14日 ~ 11月15日
三重県津市戸木町一帯
羽柴方と織田・徳川方が尾張から兵を退いたあとも、伊勢では信雄方で唯一木造城の木造具康・具政父子が羽柴秀吉に従う蒲生氏郷に抵抗を続けていた。
具政は少数の軍勢を分けるのはよくないということで居城の木造城を捨て、要害の地にあり隠居していた具康が守っていた戸木城で籠城した。
天正12年(1584年)5月に入り、蒲生軍は木造氏の支城である牧城・川方城・宮山城などを落城させ、戸木城に迫った。
木造軍1千に対して、蒲生氏郷は織田信包を総大将として、約2万の大軍で攻め掛かるも、木造勢は夜襲を仕掛けるなどしてよく守ります。
戦う名分のなくなった徳川家康も、11月21日に兵を浜松に退いたため小牧・長久手の戦いは終結した。
木造軍には強者が揃っていたとされ、蒲生氏郷は自領を平定した後、木造氏旧臣のうち勇士を召し抱えたとされている。
-
田辺城の戦い [関ヶ原の戦い]
1600年7月19日 ~ 9月18日
京都府舞鶴市北田辺
小野木重次 (37)前田茂勝
織田信包 (57)小出吉政 (35)杉原長房 (26)谷衛友 (37)藤掛永勝
川勝秀氏
長谷川宗仁
赤松左兵衛佐
山名主殿頭
中川秀成 (30)毛利高政 (41)早川長敏
木下延俊 (23)竹中重利 (38)WIN
田辺城(舞鶴城)
慶長5年(1600年)6月16日に家康と対立して佐和山に蟄居していた石田三成は、畿内一帯が軍事的な空白地域になったことを好機と見て、大坂城に入り家康を討伐するために兵を挙げた。
石田三成は大坂城下にいる東軍方の大名の妻子を人質として取り込もうとしたが、その際、長岡(細川)忠興の正室であるガラシャが自死し、失敗に終わった。
その後、西軍は畿内近国の家康側諸勢力を制圧することに取り組んだ。
その中には丹後田辺城も含まれており、丹波福知山城主の小野木重次や亀岡城主の前田茂勝、織田信包・小出吉政・杉原長房・谷衛友・藤掛永勝・川勝秀氏・長谷川宗仁・赤松左兵衛佐・山名主殿頭ら丹波・但馬の諸大名と、中川秀成・毛利高政・早川長敏・木下延俊・竹中重利ら豊後の諸大名も加わり、1万5000の兵力で田辺城を包囲した。
田辺城を守る側は、忠興が殆どの兵を連れて出ていたため、忠興の実弟の細川幸隆と父の幽斎、さらに幽斎の甥である三淵光行が率いる500人ほどしかいなかった。
幸隆と幽斎らは抵抗するも、兵力の差が大きく、援軍の見込みもないため、月末には田辺城は落城寸前となった。
しかし、攻撃側には幽斎を文化人として尊敬する者も多く、積極的な攻撃ができていなかった。
幽斎は当時三条西実枝から古今伝授を受けており、幽斎の弟子である八条宮智仁親王やその兄の後陽成天皇らも、幽斎の討死と古今伝授の断絶を恐れていた。
そのような状況下でついに天皇は、幽斎の弟子である三条西実条と中院通勝、中将烏丸光広を勅使として派遣し、講和を命じた。
勅命を受けた幸隆と幽斎は、9月13日に田辺城を明け渡し、敵将前田茂勝の居城である丹波亀山城に移ることとなった。
この戦いは西軍の勝利となったが、丹波・但馬の西軍1万5000は田辺城に釘付けにされ、関ヶ原の本戦が行われる9月15日までに間に合わず、西軍の展開に大きな影響を及ぼした。
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