武将名鑑【信長の野望 新生】
織田信雄(おだのぶかつ)
織田信雄(おだのぶかつ)
織田信雄 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
37 (1888 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
41 (1745 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
29 (2152 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
59 (854 位) | ||||
合計 | 166 (2010 位)2201人中 |
織田信雄 の基礎データ | |||||
---|---|---|---|---|---|
性別 | 男 | ||||
別名 | 北畠具豊 信意 | ||||
幼名 | 茶筅丸 | ||||
仮名・通称 | 三介 | ||||
渾名 | 御本所 | ||||
法号・戒名 | 常真 徳源院殿実巌常真大居士 | ||||
父 | 織田信長 | ||||
養父 | 北畠具教 | ||||
母 | 吉乃 | ||||
配偶者・正室 | 千代御前(雪姫・北畠具教の娘) | ||||
側室1 | 木造具政の娘 | ||||
側室2 | 織田長利の娘 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1558年 | 信長の次男。伊勢国司・北畠家の養子となり、家督を継ぐ。本能寺の変後は豊臣家に従属した。小田原征伐後、徳川家康の旧領への転封を拒否し、改易された。 | |||||||||
死亡年 | 1630年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
中道 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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数奇 | 家宝をまれに入手 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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激励 | 自部隊の攻撃上昇 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 未登場 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 未登場 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 元服前 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 元服前 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 25 |
織田信雄が登場する合戦
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大河内城の戦い [織田信長の伊勢平定]
1569年8月26日 ~ 10月3日
三重県松阪市大阿坂町
織田信長 (35)森可成 (46)坂井政尚
蜂屋頼隆 (35)佐久間信盛 (42)豊臣秀吉 (32)氏家卜全 (56)安藤守就 (46)織田信包 (26)滝川一益 (44)丹羽長秀 (34)稲葉一鉄 (54)池田恒興 (33)織田信雄 (11)WIN
1569年(永禄12年)8月20日、上洛戦を終えて美濃に戻っていた信長は、伊勢攻略のため総勢7万といわれる大軍で岐阜を出陣。
23日、事前に送り込んだ滝川一益が寝返らせすことに成功した木造城に着陣。北畠軍は天険の要害である大河内城やその支城に籠城しており、大河内城の本軍は約8,000だったと言われている。
織田軍の木下秀吉は史上の阿坂城を落城させたり、滝川一益は多芸城を焼き討ちにしたりと織田軍が優勢となるも、要害である大河内城はなかなか落とせなかった。
そこで兵糧攻めを行い、北畠家は降伏。
という北畠家に不利な条件で和睦した。
-
孝子峠の戦い [織田信長の紀伊平定]
1577年2月22日
大阪府泉南郡岬町
雑賀衆
LOSE
天正五年(1577年)2月22日、志立に到着した織田軍は、海側を行く浜手と内陸を行く山方の2手に軍勢を分け、進撃していった。
浜手を進む織田勢には、織田信長の子である織田信忠・北畠 (織田) 信雄・神戸(織田)信孝のほか、明智光秀・滝川一益・丹羽長秀・長岡 (細川)藤孝・筒井順慶らが主力として加わり、和泉山脈を横切る孝子峠に向かう。
この孝子峠は、和泉と紀伊との国境に位置している重要な地点であったため、雑賀衆はここで織田勢を迎え撃とうとしたのである。
しかし織田勢の主力に撃破された雑賀衆は退き、その勢いに乗った織田勢は峠を下って中野城に向かった。
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志方城の戦い [織田信長の播磨・但馬平定]
1578年7月 ~ 8月10日
兵庫県加古川市志方町志方町
神吉城を落とした織田勢はそのまま北西に位置する志方城を攻めた。
織田家の軍隊は次男・織田信雄を大将に細川藤孝・羽柴秀吉ら約8,000。
別所氏の一族である志方城主の櫛橋祐貞は、わずか1,000の兵で籠城を続ける。
城から打って出るなど織田勢に攻撃を仕掛けるなどするも、8月10日に不利を悟った祐貞は降伏開城した。
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鬼瘤峠の戦い [織田信長の伊賀平定]
1579年9月17日
三重県伊賀市奥馬野周辺
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国見山砦の戦い [織田信長の伊賀平定]
1581年9月3日
三重県伊賀市種生国見
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柏原城の戦い [織田信長の伊賀平定]
1581年10月10日
三重県名張市赤目町柏原
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亀山城の戦い [賤ヶ岳の戦い]
1583年2月16日 ~ 3月3日
三重県亀山市本丸町
WIN
滝川益氏
LOSE
本能寺の変後に織田信孝方から羽柴秀吉方となっていた伊勢亀山城主の関盛信は、天正11年(1583年)正月に秀吉へ年賀の挨拶をするため子の一政ととも姫路城を訪れた。
その城を留守にした隙に、滝川一益は亀山城を奪取し、腹心の滝川益氏を入れた。
2月に秀吉は兵20,000を率いて伊勢の滝川一益領へ侵攻。
羽柴秀吉・羽柴秀長・羽柴秀次・織田信雄・掘秀政・山内一豊・高山右近・蒲生氏郷らが長島城、桑名城、亀山城を攻撃した。 -
岐阜城の戦い [賤ヶ岳の戦い]
1583年4月25日
岐阜県岐阜市大宮町
金華山(岐阜城)から眺める岐阜市の街並み
天正10年(1582年)12月の岐阜城の戦いで羽柴秀吉に降伏していた神戸(織田)信孝は、柴田勝家が賤ヶ岳に出陣したとの報に接して再び挙兵した。
これにより安土に送られていた信孝の母と妻子6人が処刑されてしまう。
その後、滝川一益を攻撃していた兄の北畠信雄に岐阜城を包囲され、4月23日に北庄城の戦いで柴田勝家を失うと、28日にやむなく開城した。
一説では、降伏したのではなく信雄が信孝を欺いて和議を持ちかけ、岐阜城を開城させたという。
信孝は長良川を下って尾張国知多郡に奔り、知多半島の内海大御堂寺(野間大坊)に送られ、自刃に追い込まれることになった。
信孝は切腹の際、腹をかき切って腸をつかみ出すと、床の間にかかっていた梅の掛け軸に臓物を投げつけたといわれている。
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蟹江城の戦い [小牧・長久手の戦い]
1584年6月22日 ~ 7月3日
愛知県海部郡蟹江町
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韮山城の戦い [豊臣秀吉の関東平定]
1590年3月29日 ~ 6月24日
静岡県伊豆の国市韮山
LOSE
韮山城から見た城下
山中城の戦いが行われていた3月29日、織田信雄を中心とする長岡(細川)忠興・蒲生氏郷・蜂須賀家政・福島正則ら4万4000余の軍勢は、伊豆韮山城を包囲する。
韮山城には、北条氏政の弟の北条氏規や朝比奈泰栄・江川英吉・富永政家ら率いる3640余の兵が籠城していた。
守将の北条氏規は非開戦派であったが、伊豆国の要で北条氏の所縁深い韮山城を守ることとなった。
まず秀吉から開城交渉を命じられた徳川家康は、小笠原丹波を使者として交渉するも氏規はこれを拒否し徹底抗戦する。
小笠原丹波は包囲するだけの大軍に不甲斐なく思い、帰陣すると勝手に攻撃し、北条方の江川英吉に撃退され討死した。
氏規は3ヶ月近くにわたって籠城したが、徳川家康の斡旋により6月24日についに降伏開城した。
秀吉/a>は蜂須賀家政、福島正則、戸田勝隆、筒井定次らの最小限の兵力だけ残し韮山城の包囲を続けさせ、主力の織田信雄らを小田原城に向かわせた。
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