武将名鑑【信長の野望 新生】
伊東義祐(いとうよしすけ)
伊東義祐(いとうよしすけ)
伊東義祐 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
63 (638 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
56 (1004 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
46 (1675 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
59 (854 位) | ||||
合計 | 224 (951 位)2201人中 |
伊東義祐 の基礎データ | |||||
---|---|---|---|---|---|
性別 | 男 | ||||
別名 | 祐清 可水 照眼 | ||||
幼名 | 虎熊丸 | ||||
仮名・通称 | 六郎五郎 | ||||
法号・戒名 | 三位入道 | ||||
父 | 伊東尹祐 | ||||
母 | 福永祐炳の娘 | ||||
配偶者・正室 | 荒武氏の娘 | ||||
側室1 | 籾木氏の娘 | ||||
側室2 | 河崎祐長の娘 | ||||
側室3 | 御東(福永源兵衛の娘、伊東義祐の姪) |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
誕生年 | 1512年 | 日向の戦国大名。伊東家最大の版図を築くが、木崎原合戦で島津軍に敗れ衰退。豊後の大友宗麟を頼るが、大友軍が耳川合戦で大敗したあとは各地を流浪した。 | |||||||||
死亡年 | 1585年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
中道 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
|||||||||||
作事 | 城下施設の建設速度上昇 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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用心 | 自部隊の防御上昇 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 35 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 42 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 49 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 59 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 71 |
伊東義祐が登場する合戦
-
都於郡城の戦い [島津貴久・義久の三州統一]
1577年12月10日 ~ 11日
宮崎県西都市都於郡町
島津義久は、天正5年(1577年)12月、日間飯野城に拠る弟の島津義弘に命じて、伊東領への本格的な侵攻を命じた。
まず、伊東方の野尻城主・福永祐友が、島津方である高原城主・上原尚近の説得を受け入れ島津方に寝返った。
伊東氏と姻戚関係にあった福永氏が寝返ったことにより、内山城主の野村刑部少輔文綱や紙屋城主の米良主税助らも次々と島津方へ寝返った。
12月7日、島津義弘が野尻城を落とすと、戸崎城・紙屋城・富田城など、日向の城は次々と開城し、島津氏は佐土原の西部を完全に手中に収めた。
12月8日、伊東義祐は領内諸将を動員し、紙屋城奪還のため出陣するも、背後の伊東家譜代家臣の謀反の動きを察知し即座に反転して佐土原に帰城。
12月9日、佐土原城で事態打開の評定が開かれた。
南の島津方は飫肥を越え、佐土原へ攻め寄せるのは必至であり、後詰の当てがない状況だったため、籠城して島津軍を迎撃する声はなかった。
抵抗を諦めた伊東義祐は、12月11日、日向を捨て次男・義益正室の阿喜多の叔父である大友宗麟を頼って豊後に逃れる決断を下した。
豊後の進路上に、新納院財部城主・落合兼朝も島津氏に迎合して挙兵した報せが入った。
落合氏は伊東氏が日向に下向する以前からの重臣で譜代の筆頭格であったが、義祐の寵臣・伊東帰雲斎の専横が元で子息の落合丹後守を殺されており、それを深く恨んでいた。
落合兼朝の裏切りにより、伊東義祐は己の今までの愚行に気付き、切腹しようとするも家臣らに止められる。
一行は財部に入るのを諦め、西に迂回し米良山中を経て、高千穂を通って豊後に抜けるルートを通ることにした。
女子供を連れての逃避行はかなり辛く苦しく、また険峻な山を猛吹雪の中進まねばならず、当初120~150名程度だった一行は、途中崖から落ちた者や、足が動かなくなって自決したものなどが後を絶たず、また島津からの追撃や山賊にも悩まされ、豊後国に着いた時はわずか80名足らずになっていたという(豊後落ち)。
その中には後に天正遣欧少年使節の一人となる伊東マンショの幼い姿もあった。
都於郡城には島津義久が入城し、これにより三州は島津氏によって統一された。
その後の都於郡城は、豊臣秀吉の九州征伐である高城の戦いにおける前線基地となっている。
伊東義祐が登場する記事一覧
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