武将名鑑【信長の野望 新生】
池田忠雄(いけだただかつ)
池田忠雄(いけだただかつ)
池田忠雄 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
57 (966 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
52 (1221 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
53 (1309 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
45 (1569 位) | ||||
合計 | 207 (1348 位)2201人中 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
誕生年 | 1602年 | 輝政の三男。母は徳川家康の娘・督姫。兄・忠継死去に伴い家督を継ぎ、備前岡山藩2代藩主となる。岡山城を改修して防備を固め。城下町を整備した。 | |||||||||
死亡年 | 1632年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
革新 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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早駆 | 自部隊の機動上昇 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 未登場 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 未登場 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 未登場 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 未登場 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 未登場 |
池田忠雄が登場する合戦
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木津川口砦の戦い [大坂冬の陣]
1614年11月19日
大阪府大阪市西成区
木津川口砦の戦いは大坂冬の陣において初めて行われた本格的な戦いである。
木津川と尻無川の合流点に豊臣方が築いた木津川口砦があった。
この砦は豊臣方が大坂城外の要所に築いた出城のひとつで、明石全登が兵800で守備していた。
木津川口の砦の正確な位置はわからないが、現在の道頓堀川口辺とみられる。
徳川方の偵察隊の一人である森村重は「飯を炊く際に出る煙が少ないので、兵数が少ないと思われます」と蜂須賀至鎮に報告したため、砦への攻撃が決定。
11月19日、徳川方は蜂須賀至鎮・浅野長晟・池田忠雄らが3000余の兵を率いて、豊臣方の木津川口砦を攻撃する。
水陸の二手に分かれて進み、木津川から迫った蜂須賀水軍の40艘の軍船が水上から砦を火攻めにし、陸路から近づいた軍勢も一斉に攻撃をしかけ、砦はその日のうちに徳川軍方の手に落ちたのであった。
不幸にも守将の明石全登は軍議のために大坂城へ赴いて留守であり、一族の明石全延が守っていたため指揮が上手くいかず、蜂須賀軍の挟撃で大混乱に陥り、大した抵抗も出来ないまま博労淵に撤退してしまう。
伝法川口では、幕府船奉行・向井忠勝および徳川義直、池田利隆らの軍船50余艘が、往来する船舶の検問にあたっていたが、新家に敵船があるのを見つけたため、徳川義直、池田利隆らの兵船とともに、敵船を追いこの地も占領した。
豊臣方は木津川口の砦と新家の輸送基地を失ったことにより、大坂城と大坂湾を結ぶ水上補給路が遮断されたのである。
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博労淵の戦い [大坂冬の陣]
1614年11月29日
大阪府大阪市西区
豊臣方は、木津川口砦とともに、木津川沿岸の守備のため博労淵(現在の大阪市西区立売堀付近、西長堀駅の北側)に砦を築き、薄田兼相が守将として兵700で守備しており、11月19日の木津川口砦陥落後もそのままになっていた。
この博労淵砦は、水路を扼する要地にあり、木津川口砦とともに木津浦の出口を守っていた砦である。11月29日、徳川軍の蜂須賀至鎮、池田忠雄、石川忠総らが博労淵の砦を攻め、これを奪取した。
寄せ手の徳川軍は、石川忠総の兵が5隻の船で伝法口から進み、蜂須賀至鎮の兵は水陸の2隊に分かれて進み、数十隻の舟に分乗して木津口から迫った一隊の到着とともに、一斉に砦内に突入したのである。守将の薄田兼相は前夜から神崎の遊女屋に泊まり込んで不在だったため、砦は守将が不在の間にあっさり陥落した。
遊女と戯れている間に砦を徳川方に陥落されたため、薄田兼相は味方から「橙武者」と軽蔑されることになる。
その理由は「だいだいは、なり大きく、かう類(柑類)の内色能きものにて候へども、正月のかざりより外、何の用にも立ち申さず候。さて此の如く名付け申し」(『大坂陣山口休庵咄』)というもの。つまり、「橙は酸味が強くて、正月飾りにしか使えず見かけ倒し」なので体格の良い薄田兼相も見かけ倒しだという意味になる。この砦の陥落により、豊臣方は、海上からの補給路を断たれてしまったのである。
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