武将名鑑【信長の野望 新生】
福島正則(ふくしままさのり)
福島正則(ふくしままさのり)
福島正則 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
78 (168 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
91 (20 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
68 (518 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
53 (1151 位) | ||||
合計 | 290 (180 位)2201人中 |
福島正則 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
別名 | 羽柴清須侍従 | ||||
幼名 | 市松 | ||||
仮名・通称 | 市兵衛 | ||||
法号・戒名 | 高斎 海福寺殿月翁正印大居士 | ||||
父 | 福島正信 | ||||
母 | 松雲院(豊臣秀吉の叔母) | ||||
配偶者・正室 | 照雲院(津田長義の娘) | ||||
側室1 | 昌泉院(徳川家康の養女) |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
誕生年 | 1561年 | 豊臣家臣。賤ヶ岳七本槍の筆頭。関ヶ原合戦では東軍の主力として奮戦し、安芸広島49万石を得る。しかし、のちに居城・広島城無断修築の罪で改易された。 | |||||||||
死亡年 | 1624年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
革新 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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城乗 | 敵城への耐久ダメージ増加 | ||||||||||
攻勢 | 自部隊の攻撃上昇 | ||||||||||
血気 | 合戦で積極的に部隊攻撃を行う | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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用心 | 自部隊の防御上昇 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 未登場 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 未登場 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 未登場 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 元服前 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 22 |
福島正則が登場する合戦
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山中城の戦い [豊臣秀吉の関東平定]
1590年3月29日
静岡県三島市山中新田・田方郡函南町柏谷城山
3月29日、羽柴秀次を総大将とする中村一氏・田中吉政・山内一豊・堀尾吉晴・一柳直末ら6万8000余の豊臣勢は、箱根を守る山中城を攻撃する。
山中城には、城番の松田康長のほか相模玉縄城主の北条氏勝や松田康郷・蔭山氏広・間宮康俊らが入り、3000余の兵で守っていた。間宮康俊は寄親の北条氏勝らを撤退させて、自らは手勢200を率いて三ノ丸~岱崎出丸辺りで豊臣方に苛烈に抗戦したために、豊臣方も一柳直末など多くの戦死者を出した。
しかし圧倒的な戦力差を前に力攻めを行われわずか半日で落城し、北条方の松田康長・間宮康俊などの武将や2000余の城兵が討ち取られた。
城を脱出した北条氏勝は玉縄城に逃げ戻った。 -
韮山城の戦い [豊臣秀吉の関東平定]
1590年3月29日 ~ 6月24日
静岡県伊豆の国市韮山
LOSE
韮山城から見た城下
山中城の戦いが行われていた3月29日、織田信雄を中心とする長岡(細川)忠興・蒲生氏郷・蜂須賀家政・福島正則ら4万4000余の軍勢は、伊豆韮山城を包囲する。
韮山城には、北条氏政の弟の北条氏規や朝比奈泰栄・江川英吉・富永政家ら率いる3640余の兵が籠城していた。
守将の北条氏規は非開戦派であったが、伊豆国の要で北条氏の所縁深い韮山城を守ることとなった。
まず秀吉から開城交渉を命じられた徳川家康は、小笠原丹波を使者として交渉するも氏規はこれを拒否し徹底抗戦する。
小笠原丹波は包囲するだけの大軍に不甲斐なく思い、帰陣すると勝手に攻撃し、北条方の江川英吉に撃退され討死した。
氏規は3ヶ月近くにわたって籠城したが、徳川家康の斡旋により6月24日についに降伏開城した。
秀吉/a>は蜂須賀家政、福島正則、戸田勝隆、筒井定次らの最小限の兵力だけ残し韮山城の包囲を続けさせ、主力の織田信雄らを小田原城に向かわせた。
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竹ヶ鼻城の戦い [関ヶ原の戦い]
1600年8月22日
岐阜県羽島市竹鼻町
杉浦重勝
梶川三十郎
花村半左衛門
毛利広盛
LOSE
木曾川
8月20日、清須城で岐阜城攻めが決まると、東軍の福島正則・細川忠興・京極高知・黒田長政・加藤嘉明・藤堂高虎・田中吉政・井伊直政・本多忠勝ら16000の兵は木曾川下流から岐阜城に進軍することになった。
このとき岐阜城の織田秀信に呼応して西軍についていた竹ヶ鼻城主の杉浦重勝は、東軍を木曾川の起(おこし)の渡しで待ち受ける。
起の渡しでは、近隣の加賀野井城の主を失った加賀井重望の家臣らや秀信からの援軍梶川三十郎・花村半左衛門や三成からの援軍毛利広盛らと柵を作って鉄砲隊を布陣していた。鉄砲隊がいることや、砂地のため馬で渡河するのが困難だったため、木曾川での対決を避けた東軍は、迂回して下流の加賀野から船や筏で渡河した。
22日午前8時、杉浦重勝らは竹ヶ鼻城に退却し、渡河した東軍は9時に竹ヶ鼻城を急襲した。
福島正則の家臣らに負傷者が出たが、正則と旧知の間柄だった二の丸の梶川・花村・毛利らが勧告を受けて降伏し、二の丸に福島軍を呼び込んだ。
本丸に孤立した重勝はそれでも降伏勧告を拒絶し、残った手勢36名で抵抗を続けた。
正則の養子の福島正之の奮戦により本丸門が破られ、午後4時には重勝自ら打って出て大槍を駆使して奮戦したのち、槍を門に立てかけ、城に火を掛け自刃した。生き残っていた重勝の家臣7名も自刃していたと伝わる。
こののち東軍は、岐阜城に向かう。
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岐阜城の戦い [関ヶ原の戦い]
1600年8月23日
岐阜県岐阜市大宮町
岐阜城
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