武将名鑑【信長の野望 新生】
蜂屋頼隆(はちやよりたか)
蜂屋頼隆(はちやよりたか)
蜂屋頼隆 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
49 (1376 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
60 (817 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
47 (1627 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
29 (2095 位) | ||||
合計 | 185 (1782 位)2201人中 |
蜂屋頼隆 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
別名 | 羽柴頼隆 豊臣頼隆 | ||||
仮名・通称 | 柴敦賀侍従 兵庫頭 兵庫助 出羽守 侍従 | ||||
法号・戒名 | 正受院殿従四位侍従前羽州太守雲岳宗閞大居士 | ||||
配偶者・正室 | 丹羽長政の娘 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1534年 | 織田家臣。黒母衣衆の1人。斎藤家を経て織田信長に仕える。以後は遊軍を率いて各地で活躍した。本能寺の変後は豊臣秀吉に属し、越前敦賀5万石を領した。 | |||||||||
死亡年 | 1589年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
革新 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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乾坤 | 合戦で積極的に退き口を襲撃 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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用心 | 自部隊の防御上昇 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 元服前 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 20 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 27 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 37 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 49 |
蜂屋頼隆が登場する合戦
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勝龍寺城の戦い [織田信長の上洛戦]
1568年9月26日 ~ 29日
京都府長岡京市神足
-
大河内城の戦い [織田信長の伊勢平定]
1569年8月26日 ~ 10月3日
三重県松阪市大阿坂町
織田信長 (35)森可成 (46)坂井政尚
蜂屋頼隆 (35)佐久間信盛 (42)豊臣秀吉 (32)氏家卜全 (56)安藤守就 (46)織田信包 (26)滝川一益 (44)丹羽長秀 (34)稲葉一鉄 (54)池田恒興 (33)織田信雄 (11)WIN
1569年(永禄12年)8月20日、上洛戦を終えて美濃に戻っていた信長は、伊勢攻略のため総勢7万といわれる大軍で岐阜を出陣。
23日、事前に送り込んだ滝川一益が寝返らせすことに成功した木造城に着陣。北畠軍は天険の要害である大河内城やその支城に籠城しており、大河内城の本軍は約8,000だったと言われている。
織田軍の木下秀吉は史上の阿坂城を落城させたり、滝川一益は多芸城を焼き討ちにしたりと織田軍が優勢となるも、要害である大河内城はなかなか落とせなかった。
そこで兵糧攻めを行い、北畠家は降伏。
という北畠家に不利な条件で和睦した。
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石山砦の戦い [室町幕府の滅亡]
1573年2月24日 ~ 26日
滋賀県大津市石山寺
元亀4年(1576年)2月、織田信長に反旗を翻した足利義昭は、近江瀬田城主・山岡景隆の弟で園城寺(三井寺) 光浄院の山岡景友(暹慶)に信長の入京を阻止するよう命じます。
そのため山岡景友は急いで石山と今堅田に砦を築いた。これに対し2月20日、信長は家臣の柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆らを派遣し、24日に織田軍は勢田から琵琶湖を渡り石山砦を攻撃する。
石山砦には山岡景友が率いる伊賀衆・甲賀衆が守備していたが、未完成の砦での防戦を断念した山岡景友は26日に降伏して退去した。
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今堅田砦の戦い [室町幕府の滅亡]
1573年2月29日
滋賀県大津市今堅田
元亀4年(1573年)2月26日に石山砦を落とした柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆ら織田勢は、柴田勝家を守りに残すと今堅田砦に向かった。
2月29日、織田軍は湖上に面した今堅田城を攻撃した。
織田勢は二手に分かれており、丹羽長秀・蜂屋頼隆らは陸路を北上して陸上から攻撃を加えており、水路を北上した明智光秀らは午前8時ごろ湖上から攻撃を加えている。
足利義昭についた渡辺昌・磯谷久次らが籠城して防戦に努めたが、正午ごろに明智隊が城に突入し落城。
この戦いで義昭側は死者500人、負傷者1,000余人を出したとされ、一方で光秀は家臣18人がこの戦いで戦死している。
光秀は今堅田を平定後、そのまま坂本城に入り、他の三将は帰還した。
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平井城の戦い [織田信長の紀伊平定]
1577年3月1日
和歌山県和歌山市平井
天正5年3月1日、浜手を進んだ織田勢のうち、滝川一益・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆・長岡藤孝・筒井順慶らの孝子峠からの3万の軍勢は、中野城を1日で攻略した後、雑賀衆を率いていた鈴木重秀の居城である平井城を攻撃した。
この平井城は大軍を迎え撃つには適さない平城であり、重秀自身はすでに退去していたのだろう。
織田軍は、圧倒的な勝利ではなかったようだ。
-
長浜城の戦い [賤ヶ岳の戦い]
1582年12月11日 ~ 15日
滋賀県長浜市公園町
天正10年(1582年)12月11日、 羽柴秀吉は丹羽長秀・筒井順慶・長岡 (細川) 忠興・池田恒興・ 蜂屋頼隆ら5万余の軍勢を率いて、長浜城の柴田勝豊を包囲した。
勝豊は越前北庄城主・柴田勝家の養子であったが、勝家の実子の勝敏が誕生したため勝豊は嗣子としての資格を失い、勝家に疎んじられるようになっていたという。さらに同じ甥の立場であった佐久間盛政が勝家に重用されることに対しても不満があった。
雪に阻まれている勝家からの後詰も期待できないなか、勝豊はさしたる抵抗もなく本領安堵の条件を容れて、12月15日秀吉に降伏し長浜城を明け渡した。
すでに勝豊は病んでいた様子で、開城後すぐに京都で療養した。
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