武将名鑑【信長の野望 新生】
長束正家(なつかまさいえ)
長束正家(なつかまさいえ)
長束正家 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
26 (2144 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
36 (1927 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
38 (1978 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
87 (45 位) | ||||
合計 | 187 (1757 位)2201人中 |
長束正家 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
仮名・通称 | 新三郎 利兵衛 | ||||
法号・戒名 | 大心院殿速成居士 | ||||
父 | 長束盛里 | ||||
配偶者・正室 | 栄子姫(本多忠勝の妹) |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1556年 | 丹羽家臣。主家没落後は豊臣家に仕え、五奉行の1人となる。算術に通じ、主家の賦課収納の財政処理を担当した。関ヶ原合戦では西軍に属し、戦後自害した。 | |||||||||
死亡年 | 1600年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
中道 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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巧言 | 他勢力との交渉に関する具申が可能 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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撹乱 | 敵部隊の体力低下 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 未登場 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 未登場 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | f | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 15 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 27 |
長束正家が登場する合戦
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伏見城の戦い [関ヶ原の戦い]
1600年7月19日 ~ 8月1日
京都府京都市伏見区桃山町
宇喜多秀家 (28)石田三成 (40)前田玄以 (61)本多正信 (62)鈴木重朝 (39)島津義弘 (65)小早川秀秋 (18)大谷吉継 (41)毛利秀元 (21)吉川広家 (39)小西行長 (41)長宗我部盛親 (25)鍋島勝茂 (20)長束正家 (44)WIN
LOSE
伏見城
慶長5年(1600年)6月16日、徳川家康は大坂城を出て山城伏見城に移動し、6月18日には守将の鳥居元忠と別れの宴を行った後、上杉討伐のため会津に向かった。
一方、大坂城の前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行は、7月17日に家康が大坂城西の丸に残していた留守居役を追放して、家康に対する13か条の弾劾状を発布する。
これに先立つ7月15日の時点で、伏見城では鳥居元忠らが籠城を始めており、西軍はこれに対する攻撃の準備を行う。
7月19日、西軍の宇喜多秀家の軍勢による攻撃が本格的に始まった。
伏見城は初めは反撃して前田玄以や長束正家の屋敷を焼き払うなどするが、その後は攻撃側からの大量の鉄砲攻撃にさらされ、29日には、石田三成の4万余の大軍で包囲されてしまう。
攻め手は築山(小山)を築いてそこに大筒・石火矢を設置したり、堀を埋めるなどするが十分に防御された城は容易に落ちなかった。
しかし、孤立した城は8月1日に落城する。
鳥居元忠は鉄砲頭の鈴木孫三郎(鈴木重朝)に討ち取られ、他にも内藤家長・元長父子、松平家忠、上林竹庵ら以下800人が討ち死にした。
この戦いは9月15日に行われる関ヶ原本戦の前哨戦であり、伏見城は落城するも、少数の兵で西軍の大軍を10日以上も足止めすることで、西軍の美濃・伊勢方面への展開が大きく遅れる原因となった。
また、島津義弘と小早川秀秋は元々東軍に味方するつもりであったが、城側に入城の意思を示したときに拒否され、結局西軍に参加して城攻めに加わっている。
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松坂城の戦い [関ヶ原の戦い]
1600年8月24日
三重県松阪市殿町
伏見城を落とした西軍の毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊・長束正家・鍋島勝茂・龍造寺高原・長宗我部盛親ら3万余の軍勢は、伊勢に侵攻し古田重勝が守る松坂城を攻撃する。
このとき伊勢で東軍に属していたのは、重勝のほかは安濃津城の富田信高や上野城の分部光嘉らがいた。
松坂城内は兵や町人を合わせて2000人ほどの寡兵であった。
戦いは8月23日に始まり、24日に総攻撃が行われた。
大軍を前にした重勝は西軍に降伏したが、関ヶ原の戦い後、西軍を引き止めた功により2万石を加増され松坂城5万5000石の大名となっている。
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安濃津城の戦い [関ヶ原の戦い]
1600年8月24日 ~ 25日
三重県津市丸之内
安濃津城(津城)
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの前哨戦の一つである安濃津城の戦いが起こります。
富田信高(安濃津城主)、分部光嘉(伊勢上野城主)、古田重勝(松阪城主)、稲葉道通(岩出城主)ら伊勢の東軍の諸将らは徳川家康の会津征伐に従軍していました。西軍の大軍が伊賀方面から伊勢に進出してきたため、分部は寡兵で自城を守り切れないと判断し、富田の安濃津城にて共同で西軍を迎えることとします。
富田の兵、分部の兵、更に古田重勝からの援軍500を加えても、安濃津城に籠城する東軍は1,700という劣勢でした。
対する毛利秀元、長束正家、安国寺恵瓊、鍋島勝茂、長宗我部盛親らで構成された西軍は総勢3万にのぼります。富田、分部らの籠城方は奮戦するも後詰・救援の見込みもないため、8月25日に高野山金剛峯寺の木食応其が仲介となって西軍との和平交渉が成立し、安濃津城は開城します。
信高、光嘉は共に一身田の専修寺へ退き、剃髪して高野山にのぼった。
しかし、関ヶ原の戦い後、西軍を釘付けした功を認められた信高は、2万石を加増されて安濃津に戻ることができた。 -
岡山城の戦い [関ヶ原の戦い]
1600年9月30日
滋賀県甲賀市水口町水口
岡山城
石田三成と結んでいた五奉行の一人である長束正家は、伊勢に出陣して安濃津城の戦いに加わったあと、関ヶ原本戦では南宮山の東に布陣し徳川家康の後方を狙うも、吉川広家に阻まれて西軍に合流できず戦いに加わることができなかった。
池田輝政や浅野長政らと小競り合いはあったが、兵力はかなり温存できており、石田三成の敗走を知ると、居城の水口岡山城を目指して撤退を試みた。
退却する長束正家隊を東軍で因幡・鹿野城主の亀井茲矩、山名豊国・池田長吉(池田恒興の三男)らが追撃し、水口岡山城へあと少しのところで弟の長束玄春は捕捉され、処刑されてしまった。
水口岡山城を攻撃するには兵力が少なかったため、亀井茲矩・山名豊国・池田長吉らは、長束正家に本領安堵と約束して降伏を促す。
9月30日、この勧告に応じて城を明け渡した正家は城を出たところたちまちに捕縛されてしまい、同様に重臣の嶺三郎兵衛、家所帯刀、伏兎彦之丞ら6名も城に入った池田勢に捕われた。
10月3日、弟の長束直吉とともに近江日野で家臣の奥村左馬助の介錯にて自刃した。享年39。
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