武将名鑑【信長の野望 新生】
豊臣秀長(とよとみひでなが)
豊臣秀長(とよとみひでなが)
豊臣秀長 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
80 (137 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
60 (817 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
87 (45 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
86 (52 位) | ||||
合計 | 313 (92 位)2201人中 |
豊臣秀長 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
別名 | 木下長秀 羽柴秀長 長秀 | ||||
幼名 | 小竹 | ||||
仮名・通称 | 小一郎 美濃守 大和大納言 | ||||
法号・戒名 | 大光院殿前亜相春岳紹栄大居士 | ||||
父 | 竹阿弥 | ||||
母 | 仲 | ||||
配偶者・正室 | 智雲院 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1540年 | 秀吉の異父弟。兄の片腕として、その覇業に貢献する。温和で人望高く、秀吉と他大名との折衝役を務めた。秀吉に先立って死去、諸将にその死を惜しまれた。 | |||||||||
死亡年 | 1591年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
革新 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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盛名 | 城主のときに配下武将の忠誠上昇 | ||||||||||
差配 | 合戦で積極的に味方部隊を支援 | ||||||||||
巧言 | 他勢力との交渉に関する具申が可能 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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罵声 | 敵部隊の防御低下 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 元服前 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 元服前 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 21 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 31 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 43 |
豊臣秀長が登場する合戦
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箕浦の戦い [織田信長の越前・北近江平定]
1571年5月6日
滋賀県米原氏箕浦
鎌刃城の救援に成功した木下秀吉は、堀秀村とその家老の樋口直房らとともに、箕浦におかれていた浅井方の陣を襲撃する。
浅井方が湖北一向一揆の加勢を得て5000余の大軍を擁していたのに対し、横山城に主力をおいてきた織田方は鎌刃城の兵と合わせても500余だったという。
しかし果敢に浅井井規隊を切り崩し、ついに浅井勢を敗走させた。
琵琶湖の湖岸伝いで逃れた浅井井規隊は八幡の辺りで一旦は持ちこたえて反撃を試みたが、秀吉隊の猛追に再び崩れ、小谷城に逃ちていった。
-
氷上城の戦い [織田信長の丹波・丹後平定]
1579年5月5日
兵庫県丹波市氷上町氷上
丹波八上城に拠る波多野秀治が織田勢に包囲されるなか、波多野氏の庶流にあたる氷上城の波多野宗長・宗貞父子も抵抗を続けていた。
天正7年(1579年)1月、織田氏の家臣の丹羽長秀・羽柴秀長の軍勢に居城氷上城を包囲されると、5か月に及び籠城した。
しかし城の兵糧が尽きると、羽柴秀長は宗長の才を惜しみ降伏を薦めるが、5月5日、宗長・宗貞父子が城を打って出たため両軍は八幡山で衝突した敗れた宗長・宗貞父子は追撃してきた織田勢に氷上城を包囲され、宗長は城に火を放ち、子の宗貞とともに自害して果てた。
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有子山城の戦い [織田信長の播磨・但馬平定]
1580年5月16日
兵庫県豊岡市出石町内町
天正8年(1580年)5月10日に長水城を落として播磨を平定した羽柴秀吉は、勢いに乗じて因幡へ侵入する。
このとき背後を固めるため、弟の羽柴秀長に但馬の平定を命じ、秀長は宮部継潤らとともに山名祐豊・堯熙父子が拠る但馬の有子山城を攻撃した。
山名祐豊は、当初は織田方に属していたが、天正3年(1575年)に重臣・太田垣氏らが毛利氏の吉川元春と和睦してしまったため、織田氏に離反し毛利氏についたとみなされていた。
父と意見の合わなかった堯熙は、5月16日の開城前に隣国の因幡国へ逃れ、有子山城に残った父の祐豊は21日に病没したという。
ここに但馬守護山名氏は滅亡したのである。
-
峰城の戦い [賤ヶ岳の戦い]
1583年2月12日 ~ 4月17日
三重県亀山市川崎町森
滝川一益の居城である伊勢長島城の攻撃に動き出した羽柴秀吉は、2月12日に弟の羽柴秀長、甥の三好信吉(羽柴秀次)をはじめ、筒井順慶・蒲生賦秀(氏郷)らに命じて一益の甥の滝川益重が守る伊勢峰城を包囲させた。
羽柴軍の猛攻を受け3月3日に亀山城が開城したあとも、益重は籠城を続けていたが兵糧も尽きかけてしまう。
4月17日、益重はついに降伏勧告を容れて開城した。
益重は峰城を北畠信雄に渡して退去している。
後に秀吉は益重を召し出して奮戦を称え、領地を与え家臣とした。 -
亀山城の戦い [賤ヶ岳の戦い]
1583年2月16日 ~ 3月3日
三重県亀山市本丸町
WIN
滝川益氏
LOSE
本能寺の変後に織田信孝方から羽柴秀吉方となっていた伊勢亀山城主の関盛信は、天正11年(1583年)正月に秀吉へ年賀の挨拶をするため子の一政ととも姫路城を訪れた。
その城を留守にした隙に、滝川一益は亀山城を奪取し、腹心の滝川益氏を入れた。
2月に秀吉は兵20,000を率いて伊勢の滝川一益領へ侵攻。
羽柴秀吉・羽柴秀長・羽柴秀次・織田信雄・掘秀政・山内一豊・高山右近・蒲生氏郷らが長島城、桑名城、亀山城を攻撃した。 -
松ヶ島城の戦い [小牧・長久手の戦い]
1584年3月16日 ~ 19日
三重県松阪市松ヶ島町
天正12年(1584年)3月6日、織田信雄は羽柴秀吉に通じたとして老臣の伊勢松ヶ島城主・津川義冬を誅殺すると、腹心の滝川雄利と日置大膳亮を松ヶ島城に入れた。
これを受けて、秀吉は松ヶ島城を奪還すべく、3月16日に弟・秀長らに命じて松ヶ島城を攻撃させた。
徳川家康の送った服部正成の援軍を得て羽柴秀長の包囲に対し40日にわたって篭城したが、抵抗の不利を悟った雄利は3月19日に勧降に応じて開城した。
その後秀長は松ヶ島城に岡本重政を入れた。
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木津城の戦い [羽柴秀吉の四国平定]
1585年7月8日
徳島県鳴門市撫養町木津
和泉・大和・紀伊の兵3万余を率いた羽柴秀長は、堺から淡路洲本に上陸すると、明石から洲本へ向かった羽柴秀次隊と合流し、天正13年(1585年)長宗我部元親方の阿波木津城を攻撃した。
木津城は元親の養女を娶り一門となっていた東条関兵衛が守るも、8日間後に水の手を断たれて落城した。
関兵衛は脱出し土佐落ちたが、降伏を認めない元親によって敗戦の責を問われ、土佐浦戸城で自刃させられた。
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牛岐城の戦い [羽柴秀吉の四国平定]
1585年7月15日
徳島県阿南市富岡町トノ町
木津城を落とした羽柴勢の主力が一宮城および脇・岩倉城に向かうと、一手は阿波九城の一つであり阿波南方最大の軍事拠点である阿波牛岐城攻めに向かった。
長宗我部元親は実弟・香宗我部親泰を牛岐城に入れて阿波を統括させていた。
しかし香宗我部親泰は羽柴勢の猛攻を防ぎきることができずに開城し、土佐に逃れた。
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一宮城の戦い [羽柴秀吉の四国平定]
1585年7月15日
徳島県徳島市一宮町
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松尾城の戦い [豊臣秀吉の九州平定]
1587年3月29日
宮崎県延岡市松山町
島津勢を豊後から逐った豊臣勢の東九州方面軍は、総大将・羽柴秀長を中心として黒田孝高・蜂須賀家政・毛利輝元・吉川元長・小早川隆景ら9万余の兵で、豊後から日向に侵入していく。
こうした動きに、それまで島津氏に従っていた日向の諸城も秀長に降ったが、日向松尾城(縣城)の土持久綱はに島津義久から「久」の字を賜っていたりと島津家への忠誠は高く依然として抵抗を続けていた。
このため松尾城は包囲され、3月29日に久綱は降伏開城し、島津家久を頼って日向佐土原城に落ちていく。
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高城の戦い [豊臣秀吉の九州平定]
1587年4月6日 ~ 29日
宮崎県児湯郡木城町高城
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