武将名鑑【信長の野望 新生】
徳川家康(とくがわいえやす)
徳川家康(とくがわいえやす)
徳川家康 の能力値 | |||||
---|---|---|---|---|---|
統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
99 (2 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
87 (45 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
90 (29 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
98 (2 位) | ||||
合計 | 374 (4 位)2201人中 |
徳川家康 の基礎データ | |||||
---|---|---|---|---|---|
性別 | 男 | ||||
別名 | 元信 元康 | ||||
幼名 | 松平竹千代 | ||||
仮名・通称 | 次郎三郎 | ||||
渾名 | 狸親父 武蔵大納言 大御所 | ||||
法号・戒名 | 東照大権現安国院殿徳蓮社崇譽(誉)道和大居士 | ||||
父 | 松平広忠 | ||||
養父 | 久松俊勝 | ||||
母 | 水野大子(伝通院) | ||||
配偶者・正室 | 瀬名姫 | ||||
側室1 | 朝日姫 | ||||
側室2 | 雲光院 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
誕生年 | 1542年 | 江戸幕府の創始者。広忠の子。桶狭間の合戦後に自立。織田家との同盟、豊臣家への従属を経て勢力を拡大する。関ヶ原合戦で勝利を収め征夷大将軍となった。 | |||||||||
死亡年 | 1616年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
革新 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
|||||||||||
三河武士 | 部隊長のとき、相性◉の配下武将数だけ防御上昇 | ||||||||||
古狸 | 大名のとき、他勢力が従属しやすい | ||||||||||
自衛 | 自勢力内では自部隊の防御上昇 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
|||||||||||
三河魂 | 自部隊の攻撃上昇 敵部隊の攻撃低下 | ||||||||||
固有政策 | |||||||||||
旗本先手役 | 大名出陣中、全部隊の防御 + X% 臨戦時、攻撃と防御 + X% |
シナリオ | |||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 元服前 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 元服前 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 19 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 29 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 41 |
徳川家康が登場する合戦
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桶狭間の戦い [松平氏と織田氏・今川氏]
1560年5月19日
愛知県名古屋市緑区
桶狭間古戦場
-
上郷城の戦い [徳川家康の三河平定]
1562年2月4日
愛知県蒲郡市神ノ郷町
永禄5年(1562年)正月15日、松平元康(後の徳川家康)は尾張清洲城の織田信長と同盟を結ぶ。
これにより今川氏真の人質として駿府におかれていた妻子の身を案じた元康は、2月4日、今川氏の縁戚にあたり桶狭間の戦い後も一貫して今川家に忠誠を尽くしていた鵜殿長照が守る三河上郷城を攻撃する。
長照はよく守り、堅城である上ノ郷城はなかなか落城しなかった。
そのため元康は甲賀衆を用いて城内に火を放ち、その混乱の中から攻め入ったと伝わっている。
鵜殿長照は殺され、長照の二人の子である氏長と氏次は生捕りにされた。
-
吉田城の戦い [徳川家康の三河平定]
1564年6月14日 ~ 20日
愛知県豊橋市今橋町
永禄5年(1562年)正月15日、松平元康(後の徳川家康)は尾張清洲城の織田信長と同盟を結ぶ。
永禄6年(1563年)7月、松平元康は今川義元の偏諱をうけた「元康」という名から「家康」に改め、今川氏との決別を示す。
永禄7年(1564年)6月、三河平定を目指す家康は、今川氏真の家臣である小原鎮実が守る東三河の要衝吉田城を包囲する。後詰のあてがない中10カ月にわたり籠城するも、降伏勧告を容れた鎮実が開城して駿河に退去した。
家康は酒井忠次を吉田城主とし、関東移封になるまで以降15年間忠次がこの地を治めた。
なお、駿河に退去した鎮実はこののちも家康に抗戦し続けることになる。
-
懸川城の戦い [武田信玄の駿河平定]
1568年12月27日 ~ 1569年5月17日
静岡県掛川市城下
掛川城
永禄11年(1568年)12月27日、徳川勢が遠江に攻め寄せ今川氏真が保護されていた掛川城の包囲を始める。
はじめのうちは大きな動きがなかったが、翌年永禄12年(1569年)の1月中旬に本格的な包囲体制ができたため、大きな戦いが繰り広げられていった。
3月5日には家康自らが大手南町口・西町口・松尾曲輪・天王小路などを攻めたが、掛川城は堅城であるうえに朝比奈泰朝がよく守ったため攻め落とせず、また、今川氏の同盟勢力である相模国北条氏も海路から援軍を送ってきたため、長期戦となった。
家康は今川家家臣の調略を試みるが、ここまで残っている朝比奈氏は揺れず、また家康は武田軍の動向にも気をつける必要があった。
信玄と家康は大井川を境として東の駿河を武田軍が、西の遠江を徳川軍が手柄次第に領有するとの約束をしていたとされているが、信玄は信濃国の伊那郡より秋山信友を大将とする別働隊を派遣していた時期があり、この軍勢が遠江国をうかがう動きを見せたため、上信感を抱いていたのである。
このような状況下で、『松平記』『北条記』によると3月8日に家康から和睦を申し入れています。
家康は、かつては自分も今川氏に取り立てられた身であり、自分が遠江を取らなければ必ず信玄が取ることになるであろうから、それよりは家康に下されて和談とすれば、北条氏と申し合わせて信玄を逐い駿府を氏真に返そう、と説いたという。
この協議には北条氏も参画し、4月末頃までにはほぼ合意に達していたようであり、5月15日(一説には17日)に開城という運びとなった。これにより、かつては駿河・遠江・三河を領した今川氏は滅亡したのである。
領国を失った氏真は妻の実家である北条氏を頼り、北条領の伊豆国へと向かった。
この時朝比奈泰朝は氏真に供奉し、伊豆へ同行している。氏真は北条氏の庇護の下に入ったが、泰朝は上杉謙信の家臣・山吉氏に援助を要請するなどの活動を行っている。
掛川城には城代として家康の重臣・石川家成・康通親子が入った。
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天方城の戦い [武田信玄の駿河平定]
1569年5月 ~ 6月19日
静岡県周智郡森町向天方
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天筒山城の戦い [織田信長の越前・北近江平定]
1570年4月25日
福井県敦賀市天筒町
元亀元年(1570年)4月25日、越前に入った織田信長は敦賀の妙顕寺に着陣すると、金ヶ崎城とその支城である天筒山城の攻略にとりかかった。
天筒山城は要害の地で、朝倉義景家臣の寺田采女正ら1500余の兵が籠城していたが、柴田勝家ら織田勢は樫曲に回り込み、湿地帯から攻め上がることで城内侵入した。
正攻法の突撃となったので、信長軍は森可成の嫡男・可隆が討死するなど多大の犠牲が出たものの、当日に落城した。
朝倉方の城兵は1300余が討死しており、ほとんど全滅だった。
天筒山城を落とした織田勢は、勢いに乗じて金ヶ崎城に向かった。
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姉川の戦い [織田信長の越前・北近江平定]
1570年6月28日
滋賀県長浜市野村町・三田町
姉川古戦場
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二連木の戦い [武田信玄・勝頼の遠江・三河信仰]
1571年4月29日
愛知県豊橋市仁連木町
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三方ヶ原の戦い [武田信玄・勝頼の遠江・三河信仰]
1572年12月22日
静岡県浜松市北区三方原町一帯
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長篠城の戦い [武田信玄・勝頼の遠江・三河信仰]
1573年7月20日 ~ 9月8日
愛知県新城市長篠
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犬居城の戦い [武田信玄・勝頼の遠江・三河信仰]
1574年4月6日
静岡県浜松市天竜区春野町
元亀4年(1573年)に長篠城を攻略した徳川家康は、遠江国内の武田家の支配下にある諸城を攻略に乗りかかる。
天正2年(1574年)4月、家康は浜松城を出陣し、大久保忠世を案内役に、水野忠重・大須賀康高・渡辺守綱・安藤直次らを率いて、武田家から離反した天野景貫が守る犬居城を攻撃した。
武田家からの援軍が得られず、武田家からの援軍が得られず犬居城から出撃し、徳川軍が攻め詰められているところを奇襲した。
悪天候も味方し奇襲が成功する。
徳川軍は撤退時に大久保忠世や榊原康政らが殿軍を務め、奮戦した。
-
設楽原の戦い [武田信玄・勝頼の遠江・三河信仰]
1575年5月21日
愛知県新城市長篠一帯
設楽原古戦場 馬防柵
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田中城の戦い [織田信長の甲斐・信濃平定]
1582年2月20日 ~ 3月1日
静岡県藤枝市田中
織田信長の軍勢に呼応して、2月18日、徳川家康も遠江浜松城を出陣して武田勝頼の領国駿河に侵入する。
遠江小山城を自落させた家康は、大須賀康高・酒井忠次・本多忠勝・榊原康政らを先鋒にして、武田勝頼の属城である駿河田中城を包囲した。田中城は堅固に備えを立てて落城の気配を見せなかった。
攻めあぐねた家康は成瀬正一に命じて開城の説得に当たらせるが、田中城の依田信蕃はこれを拒絶。さらに籠城を続ける内に織田軍の攻撃で武田勝頼が自害し、その一族である穴山梅雪より開城を勧める書簡を受けて、ようやく3月1日に信濃の本領を安堵する条件で城を大久保忠世に引き渡した。
開城後、信蕃は家康より召抱えの要請を受けるが、「お館様(勝頼)の安否の詳細が判明されない限りは仰せに従いかねる」と答えて謝絶した。
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若神子の陣 [天正壬午の乱]
1582年8月10日 ~ 10月29日
山梨県北杜市須玉町
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小牧の戦い [小牧・長久手の戦い]
1584年3月28日
愛知県小牧市小牧
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長久手の戦い [小牧・長久手の戦い]
1584年4月9日
愛知県愛知郡長久手町
長久手古戦場
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蟹江城の戦い [小牧・長久手の戦い]
1584年6月22日 ~ 7月3日
愛知県海部郡蟹江町
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韮山城の戦い [豊臣秀吉の関東平定]
1590年3月29日 ~ 6月24日
静岡県伊豆の国市韮山
LOSE
韮山城から見た城下
山中城の戦いが行われていた3月29日、織田信雄を中心とする長岡(細川)忠興・蒲生氏郷・蜂須賀家政・福島正則ら4万4000余の軍勢は、伊豆韮山城を包囲する。
韮山城には、北条氏政の弟の北条氏規や朝比奈泰栄・江川英吉・富永政家ら率いる3640余の兵が籠城していた。
守将の北条氏規は非開戦派であったが、伊豆国の要で北条氏の所縁深い韮山城を守ることとなった。
まず秀吉から開城交渉を命じられた徳川家康は、小笠原丹波を使者として交渉するも氏規はこれを拒否し徹底抗戦する。
小笠原丹波は包囲するだけの大軍に不甲斐なく思い、帰陣すると勝手に攻撃し、北条方の江川英吉に撃退され討死した。
氏規は3ヶ月近くにわたって籠城したが、徳川家康の斡旋により6月24日についに降伏開城した。
秀吉/a>は蜂須賀家政、福島正則、戸田勝隆、筒井定次らの最小限の兵力だけ残し韮山城の包囲を続けさせ、主力の織田信雄らを小田原城に向かわせた。
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玉縄城の戦い [豊臣秀吉の関東平定]
1590年4月21日
神奈川県鎌倉市城廻
北条氏勝
山中城の戦いに敗れた北条氏勝は、落城を前に自害を図るが家臣の朝倉景澄に制止され、弟の直重・繁広の言に従って城を脱出し居城であった相模玉縄城へ戻った。
この氏勝は河越城の戦いで活躍した北条綱成の孫にあたる。
氏勝は玉縄城に籠城して抗戦する構えを見せていたが、包囲した徳川家康は氏勝を味方にしようとする。
そのため玉縄城では戦闘らしい戦闘は行われず、家康の家臣・松下三郎左衛門とその一族で氏勝の師事する玉縄城下の龍寶寺住職からの説得により、4月21日に降伏した。その後氏勝は武蔵・下総方面の豊臣勢の案内役を務めて北条方諸城の無血開城の説得に尽力した。
-
江戸城の戦い [豊臣秀吉の関東平定]
1590年4月22日
東京都千代田区千代田
玉縄城を攻略した徳川家康は、豊臣秀吉の命により武蔵・下総の平定に向かうと、4月22日に北条氏の関東支配の拠点である江戸城を包囲する。
城代の遠山景政が小田原城に参陣していたため、このときは弟の川村秀重が城を守っていた。
当時の江戸城は「江戸は遠山景政の居城にて、いかにも粗末、町屋なども茅ぶきの家が百ほどもあるかないかの体で、城も形ばかりで城の様にもなっていない」と城と呼べない粗末なものだったようです。
秀重は勧告を容れて降伏し、徳川配下の戸田忠次が城を請け取る。
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臼井城の戦い [豊臣秀吉の関東平定]
1590年5月18日
千葉県佐倉市臼井田
豊臣秀吉の命に従い武蔵江戸城を攻略した徳川家康は、下総を平定するべく臼井城に向かう。
下総は小田原の北条氏に従う千葉氏の勢力下にあったが、戦国時代には千葉氏は衰え、千葉氏の筆頭家老である臼井城の原氏が実権を握っていた。
このときの城主はわずか4歳の吉丸で、同族の原(千葉)邦房が指揮を執っていた。
-
関ヶ原の戦い [関ヶ原の戦い]
1600年9月15日
岐阜県不破郡関ケ原町一帯
関ヶ原古戦場
-
天王寺口の戦い [大坂夏の陣]
1615年5月7日
大阪府大阪市天王寺区茶臼山町一帯
徳川家康 (73)本多忠朝 (33)秋田実季 (39)浅野長重 (27)松下重綱
真田信吉 (20)六郷政乗 (48)植村泰勝
榊原康勝 (25)小笠原秀政 (46)仙石忠政 (37)諏訪忠恒 (20)保科正光 (54)丹羽長重 (44)酒井家次 (51)松平康長 (53)松平忠良 (33)松平成重
松平信吉
内藤忠興 (23)水谷勝隆 (18)稲垣重綱 (32)六郷政乗 (48)徳川義直 (14)徳川頼宣 (13)小笠原忠脩
丹羽秀重
諏訪忠澄
松平忠直 (20)水野勝成 (51)浅野長晟 (29)西尾宗次
本多忠純 (29)WIN
大阪の陣の最終決戦となった天王寺口の戦い。
大阪城への総攻撃を決定した徳川家康は、本多忠勝の次男・本多忠朝を先鋒の大将に命じ、秋田実季、浅野長重、松下重綱、真田信吉、六郷政乗、植村泰勝ら計5,500を置く。
二番手には榊原康勝を大将とし、小笠原秀政、仙石忠政、諏訪忠恒、保科正光、丹羽長重ら計5,400。
三番手に酒井家次を大将とし、松平康長、松平忠良、松平成重、松平信吉、内藤忠興、水谷勝隆、稲垣重綱、六郷政乗ら計5,300。
その後方に徳川家康の本陣15,000を置いた。さらに徳川義直15,000、徳川頼宣が本陣後備として布陣し天王寺口から大坂城を攻める。
これに対し豊臣方は、真田信繁・大野治房・明石全登・毛利勝永らと共に最後の作戦を立案する。
それは右翼として真田隊、左翼として毛利隊を四天王寺・茶臼山付近に布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して家康の本陣を孤立させた上で、明石全登の軽騎兵団を迂回・待機させ、合図と共にこれを急襲・横撃させるというものだった、とされている。これにより毛利勝永は息子の毛利勝家・樫井昌孝・山本公雄・竹田永翁・浅井長房ら4,000などが天王寺口を固めていた。
正午頃、豊臣方大将の毛利勝永の寄騎が先走り、物見に出ていた幕府方先鋒大将・本多忠朝勢を銃撃します。
これをきっかけに合戦が始まると、戦場は混乱に陥った。毛利勢は正面から突入してきた忠朝を討ち取り、幕府方先鋒本多勢を壊滅させる。
本多忠朝は大坂冬の陣で、酒を飲んでいたために不覚をとってしまったため、汚名返上のため戦功が欲しかったのでしょう。
本多勢の救援をしようと小笠原秀政、小笠原忠脩、諏訪忠恒らが駆けつけるも、勢いづく毛利勢に追随する木村重成残兵である木村宗明や湯浅正寿らの備による側面からの攻撃を受け忠脩は討死、秀政は重傷を負い、戦場離脱後に死亡した。
続いて木村宗明らの備はその後、丹羽長重隊に突撃した。
丹羽長重隊の老兵丹羽秀重の備は「先の戦(大阪夏の陣における若江の戦い)で因縁のある」木村宗明の備に全身全霊の怒涛の突撃を見せたが、秀重は討ち死にし毛利勢に突破される。
その後も丹羽長重隊は秀重の亡骸を守る為、先鋒を務めたが、先鋒に残っていた先鋒備は丹羽長重隊などの数少ない隊備の手勢のみであった。二番手大将・榊原康勝以下、仙石忠政、諏訪忠澄たちの軍勢も暫く持ち堪えるものの毛利勢に先鋒大将・本多忠朝を打ち取られ木村宗明備に小笠原忠脩を打ち取られたうえに丹羽長重隊が突破された混乱に巻き込まれ壊乱。
毛利勝永は、敗兵が雪崩込んだ三番手大将・酒井家次の部隊も撃破し、遂には家康の本陣に突入するという活躍を見せた。真田信繁は指揮下の兵を先鋒、次鋒、本陣等数段に分け、天王寺口の先鋒大将・松平忠直勢と交戦していたが、天王寺口・茶臼山の一番手総大将・水野勝成勢の救援に気づかずに松平勢は真田勢の陣を抜くと大坂城に直進し、入れ違う形で真田勢は家康本陣方向へ進出した。
さらに浅野長晟が寝返ったと虚報を流して幕府方の動揺を誘い、これに乗じて毛利勢に苦戦する家康本陣へ近づき3回にわたって突撃を繰り返した。これらの攻勢によって家康本陣は混乱状態に陥った。
家康の本陣が攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来2度目であり、家康は武田家ゆかりの武将に二度馬印を倒されたこととなる。
倒れたことのなかった家康の馬印を旗奉行は倒した上に家康を見失い(後に旗奉行は詮議され、閉門処分となる)、騎馬で逃げる(一説には平野方面に逃げたともいわれる)家康自身も自刃を覚悟するも、文殊院勢誉に制止されたという(実際には勢誉はこの2年前に死去しているので俗説)。
しかし豊臣方の損害も決して少なくなく、数で勝る幕府方に次第に追い詰められていった。
水野勝成の性格を知る徳川家康はこれに先立って「将であるから昔のように自ら先頭に立って戦ってはならない」と厳しく命じていたが、戦況を重く見た一番手総大将・水野勝成大和路勢は勝成が自ら一番槍を取った、彼の救援に天王寺口・茶臼山の一度は崩された諸将の軍勢も陣を立て直して豊臣方を側面から攻め立て始めた。大野治長は秀頼の出馬は今しかないと考え、自ら言上しようと大坂城に引き返した。
しかしこの時、治長は秀頼の馬印を掲げたまま帰ろうとしたため、退却と誤解した大坂方の人々の間に動揺が走り、落胆が広がった。真村信繁も3度の突撃の後、13の傷を受け疲労のため動けず、四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で木にもたれて傷つき疲れた身体を休ませていたところを、松平忠直配下の鉄砲組頭である西尾宗次に発見され、「この首を手柄にされよ」との最後の言葉を残して討ち取られた。
豊臣方で唯一組織的な戦闘を続けていた毛利勝永や大野治房も真田勢が壊滅すると四方から集中攻撃を受けることになり大阪城内に撤退した。
別働隊の明石全登は天王寺口の友軍が敗れたことを知ると天王寺口・茶臼山の水野勝成勢に突撃した後姿を消した。
勝ちに乗した徳川勢が城内への侵入を果たし、大坂城は落城することになった。
翌5月8日、豊足秀頼は毛利勝永の介錯で自刃し、秀頼の子で8歳の国松丸は、京都六条河原で斬首されている。大坂の陣をもって150年ほどに渡って続いてきた戦乱の時代が終わり、江戸幕府は元号を元和と改めた。
これを元和偃武という。偃武とは武器を武器庫に収めることを指しており、すなわち平和になったという意味である。
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