武将名鑑【信長の野望 新生】
筒井順慶(つついじゅんけい)
筒井順慶(つついじゅんけい)
筒井順慶 の能力値 | |||||
---|---|---|---|---|---|
統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
60 (814 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
47 (1473 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
76 (244 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
76 (225 位) | ||||
合計 | 259 (407 位)2201人中 |
筒井順慶 の基礎データ | |||||
---|---|---|---|---|---|
性別 | 男 | ||||
別名 | 藤勝 藤政 権少僧都 | ||||
法号・戒名 | 陽舜房順慶 | ||||
父 | 筒井順昭 | ||||
母 | 大方殿(山田道安の娘) | ||||
配偶者・正室 | 多加姫(九条家の娘) | ||||
側室1 | 松(布施春行の娘) | ||||
側室2 | 織田信長の娘か妹 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
誕生年 | 1549年 | 大和の国衆。順昭の嫡男。父・順昭の夭逝により2歳で家督を継ぐ。松永久秀と争い、居城・筒井城を追われたが、のちに織田信長に従属して勢力を回復した。 | |||||||||
死亡年 | 1584年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
中道 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
|||||||||||
人脈 | 遠国登用に関する具申が可能 | ||||||||||
能弁 | 外交取次次の信用上昇増加 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
|||||||||||
治癒 | 自部隊の兵力回復 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 未登場 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 5 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 12 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 22 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 34 |
筒井順慶が登場する合戦
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筒井城の戦い [三好三人衆と松永久秀]
1565年11月18日
奈良県大和郡山市筒井町
二条御所の変で将軍の足利義輝を弑逆した三好三人衆と松永久秀は、やがて三好氏の実権をめぐり対立するようになる。
そうしたなか、かねてより久秀と抗争をくりひろげてきた筒井藤勝丸(順慶)は、長慶の甥で三好氏の当主となった三好義継や三好三人衆と同盟を結び勢力回復を図ろうとした。
永禄8年(1565年)11月16日、手始めに三好軍は松永軍に属していた飯盛山城を攻撃した。
この動きをみた松永久秀は18日に、三好軍と歩調がまだ揃っていない筒井城を奇襲する。
松永軍の手際の良さに箸尾高春・高田当次郎らの国人衆が順慶を見限って松永軍に寝返えり、また三好三人衆からの援軍は間に合わなかたっため、筒井藤勝丸は自落して、一族の布施氏を頼って布施城に落ち延びた。
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上野芝の戦い [三好三人衆と松永久秀]
1566年2月17日
大阪府堺市西区上野芝町
永禄8年(1565年)11月、三好三人衆は、松永久秀の属城である河内飯盛山城にいた三好義継を河内高屋城に迎え、庇護下におく。
三好康長や安宅信康ら一門衆も三好三人衆側に加担し、三人衆が新たに担いだ14代将軍・足利義栄からも討伐令を出されるなど、久秀は三好家中で孤立してしまう。
翌永禄9年(1566年)2月、松永久秀は和泉・堺に拠る畠山高政・安見宗房主従と同盟を結び根来衆とも連携し義継の居城高屋城を攻撃するも、三好義継・三好三人衆が久秀を討つため1万3000余の兵を率いて出陣した。
2月17日、松永方は城を出て、三人衆と同盟者の筒井順慶と河内上野芝で戦うが、両者の挟撃を受け敗れた。
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筒井城の戦い [三好三人衆と松永久秀]
1566年6月8日
奈良県大和郡山市筒井町
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東大寺の戦い [三好三人衆と松永久秀]
1567年4月18日 ~ 10月10日
奈良県奈良市雑司町
東大寺
-
筒井城の戦い [織田信長の大和平定]
1568年10月6日 ~ 8日
奈良県大和郡山市筒井町
筒井順慶は、永禄9年(1566年)6月の筒井城の戦いに勝利したことで、居城の筒井城を松永久秀から奪還することに成功していた。
一方で松永久秀・久通父子と三好義継らは織田信長に接近し、信長は義継には河内上半国守護と若江城を与え、松永父子には「手柄次第切取ヘシ」と大和を武力で奪い取るよう命じた。
さらに信長は細川藤孝、佐久間信盛、和田惟政ら2万の援軍の約束をし、久秀は再び大和に帰国し攻勢に出た。
六角氏や三好三人衆を破った織田軍の軍事力は脅威的と見たのか、筒井軍の中には見限って松永軍に合力する者もいた。
代表格は菅田備前守で、第六次筒井城の戦いで既に寝返った箸尾高春らと共に9月25日、十市城を攻撃し放火して回った。
それ以外にも郡山向井氏、小泉秀元らも松永久秀に通じたようである。
10月6日孤立した筒井軍に松永軍が総攻撃を行い、攻城の先鋒は昨日まで筒井軍にいた郡山向井隊が務めていた。
信長の援軍が到着する松永軍の士気は高いと思われている。
まず城下の家々を焼き払った。
筒井軍も防戦したが、次第に討ち取られていき、筒井城が落城したのは2日後の10月8日の夕刻であった。
筒井順慶は筒井城を脱出して東山中の福住中定城に落ちていった。
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福住城の戦い [織田信長の大和平定]
1570年6月9日
奈良県天理市福住町
永禄11年(1568年)の筒井城の戦いに敗れた筒井順慶は、縁戚の福住氏の居城である福住城に逃れ匿われており、松永久秀を討つ機会をうかがっていた。
元亀元年(1570年)6月9日、筒井順慶を討つべく松永久秀・久通父子が福住城に攻撃を仕掛けてくると、福住城主の福住宗永は防戦に務め、松永勢を撃退。
順慶を守ることに成功した。 -
辰市城の戦い [織田信長の大和平定]
1571年8月4日
奈良県奈良市西九条町
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多門城の戦い [室町幕府の滅亡]
1573年12月26日
奈良県奈良市多門町
入京した織田信長にいち早く降り、多聞城と信貴山城を拠点に大和の支配を任されていた松永久秀であったが、元亀4年 (1573年)3月に足利義昭と結んで信長に反旗を翻す。
信長は佐久間信盛・筒井順慶らに命じ、久秀とその子の久通が拠る多聞城を攻撃させた。
4月に武田信玄が病死し、7月に義昭が信長に追放され、11月に三好義継が若江城の戦いで討たれたりと状況が悪くなり、松永久秀は多聞山城を包囲していた佐久間信盛の軍に和議を申し込み12月に降伏した。
信長はすでに11月29日の段階で佐久間信盛に「多聞山城を没収して赦免するよう」指示していたため、重ねての反逆に対して多聞山城を明け渡す条件で許している。
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孝子峠の戦い [織田信長の紀伊平定]
1577年2月22日
大阪府泉南郡岬町
雑賀衆
LOSE
天正五年(1577年)2月22日、志立に到着した織田軍は、海側を行く浜手と内陸を行く山方の2手に軍勢を分け、進撃していった。
浜手を進む織田勢には、織田信長の子である織田信忠・北畠 (織田) 信雄・神戸(織田)信孝のほか、明智光秀・滝川一益・丹羽長秀・長岡 (細川)藤孝・筒井順慶らが主力として加わり、和泉山脈を横切る孝子峠に向かう。
この孝子峠は、和泉と紀伊との国境に位置している重要な地点であったため、雑賀衆はここで織田勢を迎え撃とうとしたのである。
しかし織田勢の主力に撃破された雑賀衆は退き、その勢いに乗った織田勢は峠を下って中野城に向かった。
-
平井城の戦い [織田信長の紀伊平定]
1577年3月1日
和歌山県和歌山市平井
天正5年3月1日、浜手を進んだ織田勢のうち、滝川一益・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆・長岡藤孝・筒井順慶らの孝子峠からの3万の軍勢は、中野城を1日で攻略した後、雑賀衆を率いていた鈴木重秀の居城である平井城を攻撃した。
この平井城は大軍を迎え撃つには適さない平城であり、重秀自身はすでに退去していたのだろう。
織田軍は、圧倒的な勝利ではなかったようだ。
-
片岡城の戦い [松永久秀の謀反]
1577年10月1日
奈良県北葛城郡上牧町
天正5年(1577年)10月1日、織田信忠率いる大軍は信貴山近くの法隆寺に布陣する。
この日先陣の長岡(細川)藤孝・明智光秀・筒井順慶ら5000余の兵で信貴山城の支城の片岡城を攻撃した。
片岡城はもともと筒井順慶と結ぶ片岡春利の居城であったが、永禄12年(1569年)、松永久秀に奪取されていたものである。
片岡城は1000兵で守っていたが織田勢の猛攻により海老名勝正(友清)・森秀光(正友)以下150余人が討死し落城した。
10月3日、信長に「9月23日手取川の戦いで勝利した上杉謙信であったが七尾城から進軍が止まった」との報告が柴田勝家から直接安土城に入った。
信長は謙信はこれ以上進軍することはないと判断し、総大将に嫡男の織田信忠、佐久間信盛、羽柴秀吉、丹羽長秀など加賀に出陣していた部隊を信貴山城攻城の援軍として送り込み4万の大軍となっている。 -
長浜城の戦い [賤ヶ岳の戦い]
1582年12月11日 ~ 15日
滋賀県長浜市公園町
天正10年(1582年)12月11日、 羽柴秀吉は丹羽長秀・筒井順慶・長岡 (細川) 忠興・池田恒興・ 蜂屋頼隆ら5万余の軍勢を率いて、長浜城の柴田勝豊を包囲した。
勝豊は越前北庄城主・柴田勝家の養子であったが、勝家の実子の勝敏が誕生したため勝豊は嗣子としての資格を失い、勝家に疎んじられるようになっていたという。さらに同じ甥の立場であった佐久間盛政が勝家に重用されることに対しても不満があった。
雪に阻まれている勝家からの後詰も期待できないなか、勝豊はさしたる抵抗もなく本領安堵の条件を容れて、12月15日秀吉に降伏し長浜城を明け渡した。
すでに勝豊は病んでいた様子で、開城後すぐに京都で療養した。 -
峰城の戦い [賤ヶ岳の戦い]
1583年2月12日 ~ 4月17日
三重県亀山市川崎町森
滝川一益の居城である伊勢長島城の攻撃に動き出した羽柴秀吉は、2月12日に弟の羽柴秀長、甥の三好信吉(羽柴秀次)をはじめ、筒井順慶・蒲生賦秀(氏郷)らに命じて一益の甥の滝川益重が守る伊勢峰城を包囲させた。
羽柴軍の猛攻を受け3月3日に亀山城が開城したあとも、益重は籠城を続けていたが兵糧も尽きかけてしまう。
4月17日、益重はついに降伏勧告を容れて開城した。
益重は峰城を北畠信雄に渡して退去している。
後に秀吉は益重を召し出して奮戦を称え、領地を与え家臣とした。 -
千石堀城の戦い [羽柴秀吉の紀伊平定]
1585年3月21日 ~ 22日
大阪府貝塚市名越
紀伊に向かった羽柴勢は羽柴秀次を大将として、まず根来寺の出城であった和泉千石堀城を攻める。
羽柴秀次隊には堀秀政、筒井順慶、長谷川秀一らが続き、更に田中吉政、渡瀬繁詮、佐藤秀方ら3千の兵が加わった。
天正13年(1585年)3月21日の夕刻から総攻撃がかけられた。
まずは大手門に取り付き、二の丸の柵を破り空堀に入り二の丸にいた城兵300余りの首を討ち取った。
しかし本丸は根来寺の衆徒らが鉄砲を用いてよく防いだため、豊臣秀次軍に1,000名の死者が出た。
この時、秀吉自ら鉄砲を取って戦ったという。
筒井順慶隊が放った火矢が城郭を焼き、火薬箱に引火して爆発をおこし、これに乗じた豊臣秀次軍は攻め翌22日に千石堀城は落城。
秀吉が助命を認めなかったため、城兵とその一族はことごとく殺害された。
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