武将名鑑【信長の野望 新生】
尼子晴久(あまごはるひさ)
尼子晴久(あまごはるひさ)
尼子晴久 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
78 (168 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
59 (862 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
77 (213 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
75 (254 位) | ||||
合計 | 289 (187 位)2201人中 |
尼子晴久 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
別名 | 詮久 三郎 | ||||
幼名 | 三郎四郎 | ||||
法号・戒名 | 天威心勢大居士 月光院殿愚溪宗見大居士 光德院殿鳳頷英逸大居士 | ||||
父 | 尼子政久 | ||||
母 | 山名幸松の娘 | ||||
配偶者・正室 | 尼子国久の娘 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1513年 | 出雲の戦国大名。祖父・経久の死後家督を継ぐ。積極的な外征戦略を行い、尼子家の最大版図を築く。脆弱な支配体制を固めるため、新宮党の粛清を行った。 | |||||||||
死亡年 | 1560年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
中道 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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一所懸命 | 同一城に属す全郡で領内行動の集落掌握速度が上昇 | ||||||||||
用兵 | 敵部隊を挟撃中、自部隊の攻撃上昇 | ||||||||||
作事 | 城下施設の建設速度上昇 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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足止 | 敵部隊の機動低下 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 34 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 41 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 48 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 死亡 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 死亡 |
尼子晴久が登場する合戦
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山吹城の戦い [大内義興・義隆の興亡]
1537年8月16日
島根県大田市大森町
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郡山城の戦い [大内義興・義隆の興亡]
1540年9月5日 ~ 1541年1月13日
広島県安芸高田市吉田町
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第一次月山富田城の戦い [大内義興・義隆の興亡]
1543年3月 ~ 5月7日
島根県安来市広瀬町富田
大内義隆 (36)陶晴賢 (22)杉重矩 (45)内藤興盛 (48)冷泉隆豊 (30)弘中隆兼 (33)大内晴持
毛利元就 (46)小早川正平 (20)益田藤兼 (14)福島源三郎親弘
右田弥四郎
毛利隆元 (20)渡辺通 (32)LOSE
赤穴城を落とした大内義隆は勢いに乗じ、天文12年(1543年)3月、尼子晴久の居城である出雲の月山富田城に攻撃を開始する。
大内軍は義隆自らが総大将となり、陶隆房、杉重矩、内藤興盛、冷泉隆豊、弘中隆包らが兵を率いていた。
また、義隆の養嗣子の大内晴持も併せて出陣していた。
毛利軍も毛利元就、小早川正平、益田藤兼ら安芸・周防・石見の国人衆を集めて大内軍に合流した。
しかし、糧道にて尼子軍のゲリラ戦術を受け兵站の補給に失敗したり、出陣して1年を過ぎていた大勢の士気は下がっていたり、城攻めは難航する。
そして4月末には、尼子方から大内方に鞍替えして参陣していた三刀屋久扶、三沢為清、本城常光、吉川興経などの国人衆が再び尼子方に寝返った。
城を攻めると見せかけて堂々と城門から尼子軍に合流していったと言われる。
5月7日、劣勢が明白となった大内軍は撤退を開始し、出雲意宇郡出雲浦へ退いた。
尼子軍の追撃は激しく、大内家臣の福島源三郎親弘・右田弥四郎たちが防ぎ戦死している。
このとき、義隆と晴持は別々のルートで周防まで退却を図った。
義隆は宍道湖南岸の陸路を通り、石見路を経由して5月25日に山口に帰還する。
しかし、中海から海路で退却しようとした晴持は、船が事故で転覆したため溺死した。
殿を命じられていた毛利軍は、沼田小早川正平らが討死するなど過酷を強いられながら安芸への撤退を続けるも、石見の山吹城から繰り出された尼子軍の追撃によって、石見国の大江坂七曲りで元就と嫡子の隆元は自害を覚悟するまでに追い詰められたとされる。
この時、毛利家臣の渡辺通が元就の甲冑を着て身代わりとなり、内藤九郎右衛門元茂・波多野源兵衛・井上与三右衛門元有・井上源左衛門・三戸与五郎・三戸小三郎ら7人が囮役となり追撃軍を引き連れて奮戦した後に討ち死にした。
現在この毛利元就が九死に一生を得た場所は、七騎坂(島根県大田市温泉津町小浜)と呼ばれている。
吉田郡山城に無事帰還した元就は、渡辺通の献身に感動し、通の子・渡辺長を股肱の臣として重用している。
寵愛していた大内晴持が船の転覆により溺死したことで、義隆はそれ以降政治に対する意欲がなくなり、一方で尼子氏は晴久のもとで勢力を回復させ最盛期を迎える。
この遠征は1年4ヶ月にも及んだ挙句敗戦し、大内氏衰退の一因となった。
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布野の戦い [大内義興・義隆の興亡]
1544年7月28日
広島県三次市布野町下布野
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温湯城の戦い [毛利元就の石見・出雲平定]
1558年5月20日 ~ 8月25日
島根県邑智郡川本町
石見銀山争奪のため出雲への侵攻を図る毛利元就は、永禄元年(1558年)5月、子の吉川元春に尼子晴久に従う小笠原長雄が守る石見温湯城を攻撃させた。
まず小笠原長雄は尼子軍と共に別当城(邑南町)に陣を構えて迎え撃つが温湯城に退却。
5月20日、自ら大軍を率いて石見に入った毛利元就・毛利隆元・小早川隆景らの軍勢は、吉川元春の軍勢らと合流し1万2000の軍勢となり、温湯城を包囲した。
この時元就は、温湯城のすぐ東側に陣城である会下山城を作っている。
7月、毛利勢の石見侵攻に対し、出雲富田城の尼子晴久は自ら2万5千の援軍を率いて温泉津に着陣するが、豪雨の影響による増水で江の川を渡河できず温湯城を救援することができなかった。
その際に元就は小笠原氏の所領を江の川の北側へ移し、温湯城のある川本をはじめとした小笠原氏の本領の半分は吉川氏に与えられた。
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山吹城の戦い [毛利元就の石見・出雲平定]
1558年9月3日
島根県大田市大森町
温湯城の救援に失敗した尼子晴久は、2万5千の大軍で毛利元就の属城となっていた石見山吹城を急襲する。
山吹城は大森銀山を守るために築かれた城で、元就はすでに毛利氏に帰服していた刺賀長信・ 高畠遠言を城番としていた。
尼子軍の本城常光は手始めとして山吹城への兵糧道を封鎖し商人達にも山吹城への商品輸送を禁じた。
この状況下の山吹城を救援するため出陣してきた毛利家臣の宍戸隆家率いる7,000の毛利勢は、数で劣るため山間の谷川が流れる狭隘な忍原に陣取った。
しかし尼子軍は急峻な山に登って石を落し、宍戸軍を両側から挟撃し、さらに亀谷城の城兵と呼応して攻撃したため逃げ場を失った宍戸軍は統制が取れなくなり自壊し、死者数百名を出して敗走した(忍原崩れ)。
後援の吉川元春も尼子軍の抵抗に手こずり、山吹城に籠城する長信らも包囲されて孤立。
山吹城内の将兵は飢えに苦しみ、不利を悟った刺賀長信は義弟の湯惟宗を通じて、自身の自害と引き換えに山吹城の城兵は安芸国吉田郡山城の毛利元就の下へ送還することを要求する。
晴久はこれを認め、長信は副将の高畠遠言と共に湯惟宗によって温泉津の海蔵寺に護送され、晴久の派遣した検使の前で切腹した。
この合戦により、晴久は石見銀山と山吹城を奪取した。
晴久はこの戦いに功のあった本城常光を石見最前線である山吹城におく。
また、尼子氏はこの石見銀山を手中に収めることを確実にする為に在地豪族の温泉英永と尼子氏の直臣である多胡辰敬・牛尾久清との連絡網を構築する。
その後、毛利氏は石見銀山の奪取を何度か企てるも敗北し、晴久の存命中にこれを降す事は出来なかった。
尼子晴久が登場する記事一覧
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