武将名鑑【信長の野望 新生】
立花道雪(たちばなどうせつ)
立花道雪(たちばなどうせつ)
立花道雪 の能力値 | |||||
---|---|---|---|---|---|
統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
92 (19 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
91 (20 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
88 (38 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
75 (254 位) | ||||
合計 | 346 (20 位)2201人中 |
立花道雪 の基礎データ | |||||
---|---|---|---|---|---|
性別 | 男 | ||||
別名 | 戸次鑑連 戸次道雪 親守 親廉 | ||||
幼名 | 八幡丸 | ||||
仮名・通称 | 孫次郎 左衛門大夫 伯耆守 紀伊入道 丹後入道 摂津入道 | ||||
渾名 | 鬼道雪 雷神 九州の軍神 弓矢八幡 摩利支天の化身 | ||||
法号・戒名 | 麟伯軒道雪 福厳院殿前丹州太守梅岳道雪大居士 | ||||
父 | 戸次親家 | ||||
母 | 正光院(由布惟常の女) | ||||
養母 | 養孝院(臼杵長景の女) | ||||
配偶者・正室 | 波津(白山院・入田親誠の娘) | ||||
側室1 | 浦辺衆田原氏之の娘 | ||||
側室2 | 仁志(宝樹院・問註所鑑豊の娘) | ||||
側室3 | 色姫(竹龍院・宗像正氏の娘) |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
誕生年 | 1513年 | 大友家臣。立花城西城督。落雷で歩行不能となるが、輿に乗って常に大友軍の先陣を切り「鬼道雪」の異名をとった。生涯を軍陣で過ごした、家中随一の猛将。 | |||||||||
死亡年 | 1585年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
中道 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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雷の化身 | 合戦で味方部隊が混乱すると、すぐに解消する | ||||||||||
攻勢 | 自部隊の攻撃上昇 | ||||||||||
用兵 | 敵部隊を挟撃中、自部隊の攻撃上昇 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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雷切丸 | 敵部隊の兵力減少 敵部隊の防御低下 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 34 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 41 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 48 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 58 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 70 |
立花道雪が登場する合戦
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古処山城の戦い [毛利元就と大友宗麟]
1557年7月7日 ~ 13日
福岡県朝倉氏秋月野島
天文20年(1551年)、後ろ盾であった大内義隆が家臣の陶晴賢の謀反により自害する(大寧寺の変)と、秋月家は豊前の大友宗麟に属します。
しかし中国地方で勢力を急速に拡大していった毛利元就の調略が成功し、秋月文種や筑紫惟門などは毛利家に属し大友家に対しては反旗を翻します。
元就は「大友を討てば、筑前・豊前を与える」と誘ったようです。このため大友宗麟は戸次鑑連(立花道雪)と臼杵鑑速や高橋鑑種に2万の兵を預けて文種討伐を命じました。
古処山城で徹底抗戦するも大友氏による猛攻により陥落し、城主・秋月文種と嫡男・晴種は自害、三児(種実、種冬、種信)は毛利元就のもとへ落ち延びた。
これにより豊前秋月家は滅亡しほとんどの所領を失うが、子孫が島津氏に従属し大名として復活しています。
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香春岳城の戦い [毛利元就と大友宗麟]
1561年7月15日 ~ 16日
福岡県田川郡香春町採鋼所
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白山城の戦い [毛利元就と大友宗麟]
1561年8月16日
福岡県宗像市山田
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松山城の戦い [毛利元就と大友宗麟]
1562年9月 ~ 1563年1月27日
福岡県京都郡苅田町松山
永禄5年(1562年)9月、大友宗麟は毛利元就による筑前への連絡を断つ目的で尼子義久から出陣の要請を受けた。
宗麟は豊前に戸次鑑連(立花道雪)や吉弘鑑理らを派遣し、元就の家臣の勇将・天野隆重、内藤就藤、毛利元種・元員や杉氏の一族である杉重良が守る苅田松山城を包囲させた。
これに対し元就は、翌永禄6年(1563年)正月に、子の毛利隆元と小早川隆景らの大軍を周防府中(防府)に送り込んで松山城攻略の指揮をさせる。
正月27日の決戦で毛利方が勝利をおさめると、永禄7年(1564年)に第13代将軍足利義輝の仲介を受け入れて、大友氏と毛利氏は和睦し松山城は大友氏に引き渡された。
その後大友方の長野祐盛が松山城に入った。 -
宝満城の戦い [毛利元就と大友宗麟]
1567年7月 ~ 1569年12月11日
福岡県太宰府市宝満山
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岩屋城の戦い [毛利元就と大友宗麟]
1567年7月7日
福岡県太宰府市太宰府
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長谷山の戦い [毛利元就と大友宗麟]
1567年8月14日
福岡県朝倉市長谷山
高橋鑑種が毛利元就の調略に応じて大友宗麟に反旗を翻すと、これに呼応して筑前古処山城の秋月種実も挙兵した。
弘治3年(1557年)の古処山城の戦いで秋月文種や嫡男の晴種が宗麟の猛攻を受け自害し滅ぼさられると、その子の種実は家臣に連れられて古処山城を脱出し安芸の毛利元就に庇護された。
永禄2年(1559年)正月、秋月氏の旧臣である深江美濃守らは、毛利氏の支援を得て大友氏が占拠する古処山城を奪還したため、秋月氏は旧領を回復した。種実の弟・種冬は高橋鑑種の養子として豊前国小倉城に入り、元種は香春岳城主となり、大友氏に対抗した。
これに伴い、宗麟は戸次鑑連(立花道雪)に2万余の大軍を率いて秋月領に侵攻させた。
筑前長谷山で待ちかまえていた秋月勢は大友勢に撃破された。
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休松の戦い [毛利元就と大友宗麟]
1567年9月3日
福岡県朝倉市柿原付近
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立花城の戦い [毛利元就と大友宗麟]
1568年4月24日 ~ 7月4日
福岡県糟屋郡神宮町立花口
立花山から見る福岡市街
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村中城の戦い [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]
1569年3月 ~ 5月
佐賀県佐賀市城内
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熊牟礼城の戦い [大友宗麟と島津義久]
1580年4月13日
大分県由布市庄内町
大友一族の田原親貫が大友氏に反旗を翻すと、これに呼応して同じ大友一族の松牟礼城主・田北紹鉄が兵を挙げた。
居城の松牟礼城から熊牟礼城に移り籠城した紹鉄は、大友義統の命を受けた志賀親度・朽網鑑康・一萬田鑑実・戸次鎮連ら1万余の軍勢に包囲される。
抗戦の不利を悟った田北紹鉄は、再起を図るべく戦わずして城を脱出して筑前に向かったが、途中の豊後日田の大山村で大友勢に討ち取られた。
田北氏の家督は、紹鉄の養子・統員が継ぐ。
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猫尾城の戦い [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]
1584年7月20日 ~ 9月5日
福岡県八女郡黒木町北木屋
沖田畷の戦いで龍造寺隆信が敗死すると、勢力回復を図る大友宗麟は兵を筑後へ送り、龍造寺氏の黒木家永(実久)が守る猫尾城を攻めた。
天正10年(1582年)の猫尾城の戦いですでに龍造寺氏に敗れていた黒木家永は、嫡男の四郎丸を人質として龍造寺氏に差し出していたため、大友氏に降伏することができなかった。
7月20日、猫尾城は水源を止められ兵糧にも事欠く状態となったが、龍造寺氏の土肥家実や馬場信貞の奮戦もあって戦況は膠着した。
しかし大友宗麟の命により立花道雪・高橋紹運らが8月19日に攻城に加わり、9月5日総攻撃をかけると、猫尾城は落城し黒木家永は自刃した。 -
高牟礼城の戦い [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]
1584年8月24日
福岡県八女郡黒木町笠原
猫尾城を包囲した大友勢は、同時に猫尾城の支城である筑後高牟礼城も包囲した。
城を守る黒木家永の家臣である椿原式部は、筑前から猫尾城の攻城軍に合流した戸次(立花)道雪・高橋紹運らの勧告を受け、8月24日に大友方に寝返って降伏開城した。
この日、龍造寺政家から赴援を命じられた田尻鑑種が高牟礼城に向かうも間に合わず、高牟礼城に入っていた龍造寺方の援将の土肥出雲守は逃亡する。
大友宗麟は、高牟礼城を椿原式部に預けた。
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山下城の戦い [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]
1584年9月11日
福岡県八女郡立花町北山山下
猫尾城・高牟礼城を落とした大友宗麟配下の戸次(立花)道雪・高橋紹運は、蒲池鎮連が守る筑後山下城に向かう。
蒲池氏は鎮連の父の鑑広の代から大友氏に通じており、天正7年(1579年)の山下城の戦いで、龍造寺隆信に攻められて龍造寺氏に降伏していた。
そのため龍造寺氏から人質を奪還した鎮連は、道雪に和睦を求めて開城したのである。
蒲池氏の降伏により、こののち筑後の国衆がことごとく宗麟に降った。
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柳川城の戦い [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]
1584年9月15日 ~ 18日
福岡県柳川市城町
山下城の蒲池鎮連を攻略した戸次道雪・高橋紹運率いる大友勢は、天正12年(1584年)9月15日、坂東寺に本陣をおくと柳川城を包囲する。
柳川城は天正8年(1580年)の柳川城の戦いで降伏した蒲池鎮竝がそののち龍造寺隆信によって謀殺されたあと、鍋島信昌(直茂)が入った。
鍋島信昌が龍造寺政家を補佐する為に佐賀城に移ったため、柳川城へは龍造寺家晴が南関から入っていた。大友勢は数千の城兵が籠城する堅牢な柳川城を攻撃したが、9月18日に攻略を諦めて筑後高良山に退陣した。
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