武将名鑑【信長の野望 新生】
田尻鑑種(たじりあきたね)
田尻鑑種(たじりあきたね)
田尻鑑種 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
41 (1742 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
50 (1326 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
52 (1359 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
61 (749 位) | ||||
合計 | 204 (1421 位)2201人中 |
田尻鑑種 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
父 | 田尻親種 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1529年 | 筑後の豪族。鷹尾城主。龍造寺隆信に仕え、三池鎮実攻めで先鋒を務めた。一時隆信と不和になるが、間もなく和解。朝鮮派兵に従軍し「高麗日記」を著した。 | |||||||||
死亡年 | 1588年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
中道 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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早駆 | 自部隊の機動上昇 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 18 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 25 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 32 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 42 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 54 |
田尻鑑種が登場する合戦
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今山城の戦い [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]
1579年3月
福岡県大牟田市今山
天正6年(1578年)の高城河原の戦いに敗れた豊後の大友宗麟の勢威が衰えると、これを好機ととらえた龍造寺隆信は本格的に筑後への侵攻を図った。
天正7年(1579年)3月、隆信は23000の大軍を率いて筑後に出陣した。
まず筑後鷹尾城の田尻鑑種が降伏し、次に筑後今山城主の三池鎮実を撃つため進軍した。田尻鑑種と三池鎮実は姻戚関係にあったので、人質を出して降伏するように勧めたが鎮実はこれを拒否した。
龍造寺軍は周辺の青田を刈り取ると、今山城に攻めかかった。
先陣は田尻鑑種とし、二陣蒲池、三陣鍋島、四陣神代、五陣横岳、さらに筑紫広門、豊饒鎮連らの大軍が一斉に突撃した。
三池鎮実以下の城兵は、龍造寺の大軍を相手によく防戦し、早朝に開始された戦いは十時間以上におよんだ。
夕刻になって大雨となり、龍造寺軍はひとまず兵を引いた。
この夜、これ以上の抵抗は無理と悟った三池鎮実以下の城兵は、風雨にまぎれて逃亡し戦いは龍造寺軍の勝利に終わった。
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山下城の戦い [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]
1579年4月9日 ~ 11月3日
福岡県八女郡立花町北山山下
天正7年(1579年)4月8日、龍造寺隆信は肥前・筑前の軍勢2万余で、蒲池鑑広が守る筑後山下城を包囲する。
筑後柳川城主の蒲池鎮竝は龍造寺氏に従っていたが、同族で筑後では一二を争う規模の豪族である蒲池鑑広は抵抗を続けていたからである。
9日から城攻めを開始した龍造寺勢は、翌10日には城下を焼き払う。
鑑広は周囲に砦を築いて籠城を続けていたが、11月3日、 筑前で秋月氏らと戦っていた大友勢が毛利勢の動きを見て本国の豊後に帰陣したため降伏した。
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柳川城の戦い [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]
1580年2月13日 ~ 11月28日
福岡県柳川市城町
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鷹尾城の戦い [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]
1582年10月4日 ~ 1583年11月27日
福岡県柳川市大和町鷹ノ尾
天正8年(1580年)の柳川城の戦いに功のあった筑後鷹尾城主・田尻鑑種が、 天正10年(1582年)9月に龍造寺隆信に反旗を翻し島津方についた。
このため人質として龍造寺氏に送られていた一族の田尻鎮清の子は、見殺しにされてしまう。
鑑種は諸所を放火の上で居城の鷹尾城に籠城した他、縁戚をそれぞれ江ノ浦城・濱田城・津留城・堀切城に配置し、同じく籠城させた。
肥前・筑後の軍勢3万余を率いて出陣してきた隆信の家臣・鍋島信生(直茂)に対し、鑑種は島津義久に援軍の依頼をし、義久は帖佐宗光・田尻但馬ら300余を鷹尾城へ送っている。
支援を得ながら籠城を続けたが、天正11年(1583年)11月に降伏開城した。
援軍の島津勢が退去すると、龍造寺隆信は鷹尾城を破却した。
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