武将名鑑【信長の野望 新生】
高遠頼継(たかとうよりつぐ)
高遠頼継(たかとうよりつぐ)
高遠頼継 の能力値 | |||||
---|---|---|---|---|---|
統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
62 (701 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
50 (1326 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
69 (474 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
38 (1859 位) | ||||
合計 | 219 (1065 位)2201人中 |
高遠頼継 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
仮名・通称 | 信濃守 紀伊守 | ||||
父 | 高遠満継 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1503年 | 信濃の豪族。高遠家は諏訪信員を祖とする諏訪家の庶流。武田信玄と結び諏訪宗家を滅ぼす。諏訪家総領の座を欲して挙兵するも、信玄の攻撃を受けて滅んだ。 | |||||||||
死亡年 | 1552年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
中道 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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一所懸命 | 同一城に属す全郡で領内行動の集落掌握速度が上昇 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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罵声 | 敵部隊の防御低下 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 44 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 死亡 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 死亡 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 死亡 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 死亡 |
高遠頼継が登場する合戦
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宮川の戦い [武田晴信の美濃平定]
1542年9月25日
長野県茅野市宮川安国寺
天文11年(1542年)7月、諏訪庶家の高遠頼継とともに桑原城の戦いで諏訪惣領家の諏訪頼重を滅ぼした武田晴信(信玄)は、頼重の遺領である諏訪郡を頼継と折半した。
これにより諏訪領は宮川以西を高遠領、以東を武田領となったが、諏訪惣領家の家督を継いで諏訪郡一円を支配下におこうとする頼継はこれに不満を抱き、晴信に反旗を翻す。
9月10日、高遠頼継は武田領に侵攻して上原城を攻め落とし、さらに諏訪上社の矢島満清、有賀遠江守、伊那郡箕輪の福与城主・藤沢頼親や土豪の春近衆を味方につけた。
これに対して9月11日、下諏訪衆、諏訪満隆、安国寺竺渓ら武田方の武将を後詰するため、晴信は板垣信方に軍を預けて向かわせた。
さらに9月19日に晴信は、自己の正当性を主張するため頼重の遺児の寅王丸を擁して出陣し、9月25日に信濃宮川を挟んで頼継と衝突した。
この戦いで高遠勢は頼継の実弟である高遠頼宗(蓮峯軒)ら700余人が討ち取られたという。
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箕輪の戦い [武田晴信の美濃平定]
1544年11月2日
長野県上伊那郡箕輪町
宮川の戦いで高遠頼継を破った武田晴信(信玄)は、諏訪郡を制圧した。
しかし、諏訪領奪回をねらう高遠頼継は福与城主の藤沢頼親の加勢を得て晴信に抵抗する構えをみせたのである。
天文13年(1544年)10月16日、晴信は甲府を出発し、福与城を攻略するために自ら軍勢を率いた。
諏訪に滞在した後、10月28日に有賀の伊那口に陣を構えた。
10月29日に先発隊を荒神山に派遣し、11月1日には近隣地域を放火しながら荒神山砦を攻撃した。
荒神山砦は福与城の出城であり、信濃守護の小笠原長時の援軍として草間肥前守が守っていた。
荒神山砦は約3時間で陥落し、約120人の敵兵の首を討ち取っている。
福与城に迫る武田勢に対し頼親が打って出たため、11月2日に城外の箕輪で戦いとなる。
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高遠城の戦い [武田晴信の美濃平定]
1545年4月15日 ~ 17日
長野県伊那市高遠町
天文14年(1545年)4月11日、武田晴信(信玄)は管川の戦いで敗れながらも勢力を保っていた高遠頼継を攻略するため、武田一門の穴山信友ら河内衆、小山田信有の郡内衆ら主力を率いて自ら出陣し高遠城に向かう。
福与城は小笠原長時の本拠の筑摩郡に近く支援を受けやすかったが、高遠城単独では小笠原の支援も難しかった。
武田軍は4月14日に上原城に入り、4月15日には雨の中を杖突峠を越えて高遠城を奇襲した。
この出陣は終始雨の中だったとされている。
悪天候が続いていたため高遠軍は油断し、奇襲を受けた高遠城は17日に自落し、頼継は逃亡した。
その後、晴信に従った頼継は結果的に自刃を命じられ、高遠氏は滅亡してしまう。
高遠城はその後も武田方の拠点となり、武田氏滅亡の直前の高遠城の戦いで落城するまで、伊那における武田勢力の拠点となった。
高遠頼継が登場する記事一覧
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