武将名鑑【信長の野望 新生】
薄田兼相(すすきだかねすけ)
薄田兼相(すすきだかねすけ)
薄田兼相 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
45 (1563 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
74 (262 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
64 (683 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
28 (2115 位) | ||||
合計 | 211 (1255 位)2201人中 |
薄田兼相 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
別名 | 岩見重太郎 古継 | ||||
仮名・通称 | 隼人正 隼人 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1578年 | 豊臣家臣。大坂冬の陣で博労ヶ淵砦の守備に失敗し、「橙武者」と嘲られた。大坂夏の陣で勇戦し、戦死した。ヒヒ退治の豪傑・岩見重太郎と同一人物という。 | |||||||||
死亡年 | 1615年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
保守 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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血気 | 合戦で積極的に部隊攻撃を行う | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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早駆 | 自部隊の機動上昇 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 未登場 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 未登場 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 未登場 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 未登場 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 元服前 |
薄田兼相が登場する合戦
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博労淵の戦い [大坂冬の陣]
1614年11月29日
大阪府大阪市西区
豊臣方は、木津川口砦とともに、木津川沿岸の守備のため博労淵(現在の大阪市西区立売堀付近、西長堀駅の北側)に砦を築き、薄田兼相が守将として兵700で守備しており、11月19日の木津川口砦陥落後もそのままになっていた。
この博労淵砦は、水路を扼する要地にあり、木津川口砦とともに木津浦の出口を守っていた砦である。11月29日、徳川軍の蜂須賀至鎮、池田忠雄、石川忠総らが博労淵の砦を攻め、これを奪取した。
寄せ手の徳川軍は、石川忠総の兵が5隻の船で伝法口から進み、蜂須賀至鎮の兵は水陸の2隊に分かれて進み、数十隻の舟に分乗して木津口から迫った一隊の到着とともに、一斉に砦内に突入したのである。守将の薄田兼相は前夜から神崎の遊女屋に泊まり込んで不在だったため、砦は守将が不在の間にあっさり陥落した。
遊女と戯れている間に砦を徳川方に陥落されたため、薄田兼相は味方から「橙武者」と軽蔑されることになる。
その理由は「だいだいは、なり大きく、かう類(柑類)の内色能きものにて候へども、正月のかざりより外、何の用にも立ち申さず候。さて此の如く名付け申し」(『大坂陣山口休庵咄』)というもの。つまり、「橙は酸味が強くて、正月飾りにしか使えず見かけ倒し」なので体格の良い薄田兼相も見かけ倒しだという意味になる。この砦の陥落により、豊臣方は、海上からの補給路を断たれてしまったのである。
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道明寺の戦い [大坂夏の陣]
1615年5月6日
大阪府藤井寺市道明寺一帯
二条城に入った徳川家康は、全軍を二手に分けると一手を河内から摂津に向かわせ、もう一手を大和から河内を経て摂津に向かわせました。
大坂城南東に位置する道明寺あたりで合流させようとしたのである。大和ルートの水野勝成・伊達政宗・松平忠輝らは奈良で陣容を整えると、5月5日に3万余の大軍で道明寺に向かいます。
大阪城の堀を埋められ野戦でしか勝機がない豊臣方は、狭隘な道明寺付近で徳川方を迎え撃つことを決め、後藤又兵衛・薄田兼相・真田信繁(幸村)・毛利勝永らは進軍します。
5月6日午前0時、後藤又兵衛指揮の兵2,800は平野を出発し、藤井寺を経て夜明け前に道明寺に到着しました。
そして幕府軍が既に国分に展開していることを知る。
しかし真田信繁・毛利勝永らの軍勢が濃霧に阻まれて遅延したため、後藤又兵衛は単独で徳川方の大軍と当たることを余儀なくされる。作戦が既に破綻していること認めた後藤は、石川を渡り小松山(現在の柏原市立玉手山公園一帯)に登り陣を構えます。
徳川軍は小松山に敵が布陣していることを知り、それを包囲することにした。午前4時、後藤は松倉重政・奥田忠次勢に対し攻撃を仕掛けました。
奥田は戦死し、松倉勢も崩れかかったが、水野勝成・堀直寄が来援してかろうじて助かった。小松山を包囲した幕府軍の伊達政宗・松平忠明らは銃撃を加え、小松山にとりつこうとします。
後藤勢は、次々に新手を繰り出す幕府軍を数度にわたり撃退したがそれにも限界があった。後藤は負傷者らを後方に下げ、小松山を下り隊に二手に分け幕府軍に最後の突撃を敢行した。
いくつか敵数隊を撃退するも丹羽氏信勢に側面を衝かれ立ち往生し、さらに伊達政宗の軍勢に銃撃され後藤が被弾。
正午頃、約8時間の戦闘の末、後藤は戦死し後藤隊も壊滅してしまう。
このころになって前隊の残り、薄田兼相、明石全登、山川賢信らが道明寺に到着し後藤を援護します。
薄田兼相は大坂冬の陣における博労淵砦の戦いで、留守にしている隙に砦を奪われる失態をおかしていたので、その汚名を雪ぐべく奮戦して討死した。
敗北した豊臣方は、西の誉田まで兵を退いていく。
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