武将名鑑【信長の野望 新生】
島津義弘(しまづよしひろ)
島津義弘(しまづよしひろ)
島津義弘 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
95 (9 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
93 (13 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
84 (86 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
80 (143 位) | ||||
合計 | 352 (15 位)2201人中 |
島津義弘 の基礎データ | |||||
---|---|---|---|---|---|
性別 | 男 | ||||
別名 | 忠平 義珍 武庫 | ||||
仮名・通称 | 又四郎 | ||||
渾名 | 鬼石曼子(鬼島津、渾名)、武庫 鬼島津 | ||||
法号・戒名 | 惟新斎 自貞 妙円寺殿松齢自貞庵主 | ||||
父 | 島津貴久 | ||||
母 | 雪窓夫人(入来院重聡の娘) | ||||
配偶者・正室 | 北郷忠孝の娘 | ||||
側室1 | 亀徳(相良晴広の娘) | ||||
側室2 | 実窓夫人(広瀬夫人、園田実明の娘) |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
誕生年 | 1535年 | 島津家17代当主。貴久の次男。伊東・大友両家を粉砕し、島津家を隆盛に導いた家中随一の猛将。朝鮮派兵の際は明の大軍を破り「鬼石曼子」と恐れられた。 | |||||||||
死亡年 | 1619年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
革新 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
|||||||||||
鬼島津 | 自部隊の兵力が少なくなると、攻撃上昇 | ||||||||||
乾坤 | 合戦で積極的に退き口を襲撃 | ||||||||||
砲術 | 自部隊の鉄砲LVが上昇 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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急襲 | 敵部隊の兵力減少 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 元服前 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 19 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 26 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 36 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 48 |
島津義弘が登場する合戦
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岩剣城の戦い [島津貴久・義久の三州統一]
1554年9月12日 ~ 10月2日
鹿児島県姶良郡姶良町脇元
天文23年(1554年)9月、大隈蒲生城主の蒲生範清が、岩剣城に拠る祁答院良重らと結び、島津方となった肝付兼演の加治木城を攻めます。
これが日本初の鉄砲同士の戦いとなりました。
島津貴久は救援のため子の義久・義弘らと共に岩剣城を包囲すると、加治木城の包囲を解いて岩剣城の後詰に出てきた蒲生方を撃破し、良重の子・重経、蒲生一族の西俣盛家らを討ち取ります。
これをみた良重が夜陰に乗じて城を捨てたため、貴久は岩剣城に義弘を入れて守られることにしました。岩剣城が落ちたが、蒲生範清の戦意は衰えなかった。
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横川城の戦い [島津貴久・義久の三州統一]
1562年6月3日
鹿児島県霧島市横川町
永禄5年(1562年)日向の北原氏に内乱があり、一族の多くが島津氏に属してしまう。
伊東派の北原兼正と子の新助は日向国飫肥の伊東氏に内応して横川城に籠った。
貴久は自らの三男である島津歳久を大将に任じて島津義弘らが横川城を攻め、北原父子は城内で自刃して果て、城も落城した。 -
木崎原の戦い [島津貴久・義久の三州統一]
1572年5月4日
宮崎県えびの市今西
-
都於郡城の戦い [島津貴久・義久の三州統一]
1577年12月10日 ~ 11日
宮崎県西都市都於郡町
島津義久は、天正5年(1577年)12月、日間飯野城に拠る弟の島津義弘に命じて、伊東領への本格的な侵攻を命じた。
まず、伊東方の野尻城主・福永祐友が、島津方である高原城主・上原尚近の説得を受け入れ島津方に寝返った。
伊東氏と姻戚関係にあった福永氏が寝返ったことにより、内山城主の野村刑部少輔文綱や紙屋城主の米良主税助らも次々と島津方へ寝返った。
12月7日、島津義弘が野尻城を落とすと、戸崎城・紙屋城・富田城など、日向の城は次々と開城し、島津氏は佐土原の西部を完全に手中に収めた。
12月8日、伊東義祐は領内諸将を動員し、紙屋城奪還のため出陣するも、背後の伊東家譜代家臣の謀反の動きを察知し即座に反転して佐土原に帰城。
12月9日、佐土原城で事態打開の評定が開かれた。
南の島津方は飫肥を越え、佐土原へ攻め寄せるのは必至であり、後詰の当てがない状況だったため、籠城して島津軍を迎撃する声はなかった。
抵抗を諦めた伊東義祐は、12月11日、日向を捨て次男・義益正室の阿喜多の叔父である大友宗麟を頼って豊後に逃れる決断を下した。
豊後の進路上に、新納院財部城主・落合兼朝も島津氏に迎合して挙兵した報せが入った。
落合氏は伊東氏が日向に下向する以前からの重臣で譜代の筆頭格であったが、義祐の寵臣・伊東帰雲斎の専横が元で子息の落合丹後守を殺されており、それを深く恨んでいた。
落合兼朝の裏切りにより、伊東義祐は己の今までの愚行に気付き、切腹しようとするも家臣らに止められる。
一行は財部に入るのを諦め、西に迂回し米良山中を経て、高千穂を通って豊後に抜けるルートを通ることにした。
女子供を連れての逃避行はかなり辛く苦しく、また険峻な山を猛吹雪の中進まねばならず、当初120~150名程度だった一行は、途中崖から落ちた者や、足が動かなくなって自決したものなどが後を絶たず、また島津からの追撃や山賊にも悩まされ、豊後国に着いた時はわずか80名足らずになっていたという(豊後落ち)。
その中には後に天正遣欧少年使節の一人となる伊東マンショの幼い姿もあった。
都於郡城には島津義久が入城し、これにより三州は島津氏によって統一された。
その後の都於郡城は、豊臣秀吉の九州征伐である高城の戦いにおける前線基地となっている。
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水俣城の戦い [大友宗麟と島津義久]
1581年8月20日 ~ 9月27日
熊本県水俣市古城
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隈庄城の戦い [大友宗麟と島津義久]
1585年8月11日 ~ 15日
熊本県下益城郡城南町
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堅志田城の戦い [大友宗麟と島津義久]
1585年8月13日
熊本県下益城郡美里町
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宝満城の戦い [豊臣秀吉の九州平定]
1586年7月 ~ 8月6日
福岡県太宰府市内山
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勝尾城の戦い [豊臣秀吉の九州平定]
1586年7月8日 ~ 10日
佐賀県鳥栖市牛原町
南九州を席巻した島津氏が筑前国への侵攻を開始した。
天正14年(1586年)7月、島津義久の弟・義弘は、自ら5万余の大軍を率いて筑前に侵攻し、前々年までは島津氏と連携していたが、侵攻の直前で大友氏に降っていた筑紫広門の居城である筑前勝尾城を攻撃する。
支城の鷹取城が落とされて弟の筑紫晴門が討ち取られ、1000余の兵で守っていたで勝尾城は島津忠長の攻撃を受けて6日に麓の総構えが破られ、10日に島津方の秋月種実の仲介で降伏開城した。
こののち大善寺に幽閉された広門は、島津勢が撤退すると幽閉先から脱出して豊臣秀吉によって筑後国上妻郡に18,000石の所領を与えられ。
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岩屋城の戦い [豊臣秀吉の九州平定]
1586年7月14日 ~ 27日
福岡県太宰府市太宰府
岩屋城
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立花城の戦い [豊臣秀吉の九州平定]
1586年8月18日 ~ 24日
福岡県糟屋郡新宮町立花ロ
立花城から見た福岡市
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梓越の戦い [豊臣秀吉の九州平定]
1587年3月18日
大分県佐伯市宇目
天正15年(1587年)3月、羽柴秀長を大将とする豊臣勢が九州に上陸し小倉に到着すると大友義統らとともに豊後奪還に向けて南下を始めた。
そのため豊後府内を拠点としていた島津義弘・島津家久は、豊臣勢との衝突を避け、日向に撤退することにした。
これを好機ととらえた栂牟礼城主・佐伯惟定と岡城主・志賀親次らは、撤退する島津勢に攻撃を仕掛けたのである。
3月17日、佐伯・志賀勢は、豊後と日向の国境に位置する梓越まで撤退する島津勢を追撃した。
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泗川城の戦い [慶長の役]
1598年10月1日
慶尚南道泗川市
慶長3年(1598年)9月26日、泗川古城に300余で在番していた所へ董一元率いる明軍と鄭起竜率いる朝鮮軍の連合軍が5万余の大軍で襲撃してきます。
これに対し、泗川を守備する島津義弘・忠恒(家久)父子の兵力は8000余でした。
劣勢に立たされた義弘は、兵力の分散を避けるため、慶長の役に際して築城した泗川新城への退去を決行します。
こうして島津勢が泗川新城に集結するなか、川上忠実だけが文禄の役に際して築かれた泗川古城に立て籠もっていました。
義弘の命を受けた川上忠実が泗川新城に撤退しようとした9月27日、泗川古城は明・朝鮮軍に包囲されてしまいます。川上忠実らは鉄砲を放ちながら退去するも、畦道であったために敵の追い討ちに遭い150余人が討ち死に、忠実も36ヶ所の矢傷を被り乗馬も射抜かれるが、海老原越後の家臣・市助が敵の馬を奪って忠実に与え、更に伊勢貞昌が出迎えの兵を出したおかげで、無事に泗川新城への入城が叶いました。
この功により、島津義弘より景光作の脇差を賜っている。泗川古城を落とした明・朝鮮軍は、勢いに乗じて泗川新城を囲みます。
泗川新城は10月1日から総攻撃をかけられたが、義弘は明・朝鮮軍を引きつけたうえで、鉄砲を多用しながら反攻に転じた。
これにより明・朝鮮軍は総崩れとなり退却を始めたが、このとき反撃に転じた島津勢が明・朝鮮軍を追撃し壊滅に追い込んだのである。
こうした一連の働きから、義弘は帰国後、島津領内に設けられていた豊臣秀吉の直轄領である太閤蔵入地などから5万石を加増されている。 -
露梁の戦い [慶長の役]
1598年11月18日
慶尚南道露梁津
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伏見城の戦い [関ヶ原の戦い]
1600年7月19日 ~ 8月1日
京都府京都市伏見区桃山町
宇喜多秀家 (28)石田三成 (40)前田玄以 (61)本多正信 (62)鈴木重朝 (39)島津義弘 (65)小早川秀秋 (18)大谷吉継 (41)毛利秀元 (21)吉川広家 (39)小西行長 (41)長宗我部盛親 (25)鍋島勝茂 (20)長束正家 (44)WIN
LOSE
伏見城
慶長5年(1600年)6月16日、徳川家康は大坂城を出て山城伏見城に移動し、6月18日には守将の鳥居元忠と別れの宴を行った後、上杉討伐のため会津に向かった。
一方、大坂城の前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行は、7月17日に家康が大坂城西の丸に残していた留守居役を追放して、家康に対する13か条の弾劾状を発布する。
これに先立つ7月15日の時点で、伏見城では鳥居元忠らが籠城を始めており、西軍はこれに対する攻撃の準備を行う。
7月19日、西軍の宇喜多秀家の軍勢による攻撃が本格的に始まった。
伏見城は初めは反撃して前田玄以や長束正家の屋敷を焼き払うなどするが、その後は攻撃側からの大量の鉄砲攻撃にさらされ、29日には、石田三成の4万余の大軍で包囲されてしまう。
攻め手は築山(小山)を築いてそこに大筒・石火矢を設置したり、堀を埋めるなどするが十分に防御された城は容易に落ちなかった。
しかし、孤立した城は8月1日に落城する。
鳥居元忠は鉄砲頭の鈴木孫三郎(鈴木重朝)に討ち取られ、他にも内藤家長・元長父子、松平家忠、上林竹庵ら以下800人が討ち死にした。
この戦いは9月15日に行われる関ヶ原本戦の前哨戦であり、伏見城は落城するも、少数の兵で西軍の大軍を10日以上も足止めすることで、西軍の美濃・伊勢方面への展開が大きく遅れる原因となった。
また、島津義弘と小早川秀秋は元々東軍に味方するつもりであったが、城側に入城の意思を示したときに拒否され、結局西軍に参加して城攻めに加わっている。
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