武将名鑑【新信長の野望】
織田信忠(おだのぶただ)
織田信忠(おだのぶただ)
織田信長の嫡男。
織田信忠 の能力値 | |||||
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統率
武将が出撃部隊の主将を務めた際、部隊兵数に影響。 |
528 (17 位) | ||||
武勇
武将が出撃部隊の先鋒を務めた場合、部隊の攻防バフに影響。 |
354 (49 位) | ||||
智略
武将が出撃部隊の参謀を務めた場合、部隊の攻防バフに影響。 |
305 (69 位) | ||||
内政
武将委任時の修復効果と所属部隊の採集効率に影響。 |
243 (52 位) | ||||
合計 | 1430 (51 位)84人中 | ||||
戦闘力 | 20756 |
その他のデータ | 歴史 | ||||||||||
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レアリティ | 松永久秀の謀反制圧や甲州征伐で大功績を立て、信長の家督を継ぐ。美濃、尾張の二国を領有。本能寺の変が起きると、二条城で自殺した。 | ||||||||||
タイプ | 統 | ||||||||||
適正 | 主将 | ||||||||||
兵科 | 鉄砲 | ||||||||||
逸話 | |||||||||||
信長に「有能に見えるが本当は無能」と評された。しかし甲州征伐における高遠城攻略や武田氏討伐で功労を立て、信長はその才能を認めざるを得なくなる。 | |||||||||||
コメント | |||||||||||
自鉄砲部隊の攻撃力をUP。 3ターン目から2回攻撃になり、攻撃ごとに追加ダメージを与える。 |
織田信忠が登場する合戦
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明智城の戦い(あけちじょうのたたかい) [武田信玄・勝頼の遠江・三河信仰]
1574年2月5日
岐阜県恵那市明智町
天正2年(1574年)2月、武田勝頼は織田信長を圧迫するため東濃に15000余の軍勢で出陣し、遠山氏の重要な拠点であった明智城を攻撃する。
このころ明智城は、元亀3年 (1572年) の上村の戦いで城主の遠山景行とその子の景玄が敗死していたため、景玄の子の遠山一行と叔父の遠山友治ら500の兵が守っていた。
明智城の重要性を理解していた織田信長は、2月5日に嫡男の信忠、明智光秀や美濃の諸将(池田・蜂屋・河尻・森・塚本)など尾張・美濃の軍勢3万の兵を率いて出陣したが、武田方の信長の周囲を固めた16騎のうち9騎が打ち取られ、7騎が逃げ出すなど、信長を瀬戸際まで追い詰める場面もあったという。
織田軍は明智城を赴援できず、明智城の開城をみて2月24日に岐阜に帰陣した。
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孝子峠の戦い(きょうしとうげのたたかい) [織田信長の紀伊平定]
1577年2月22日
大阪府泉南郡岬町
雑賀衆
LOSE
天正五年(1577年)2月22日、志立に到着した織田軍は、海側を行く浜手と内陸を行く山方の2手に軍勢を分け、進撃していった。
浜手を進む織田勢には、織田信長の子である織田信忠・北畠 (織田) 信雄・神戸(織田)信孝のほか、明智光秀・滝川一益・丹羽長秀・長岡 (細川)藤孝・筒井順慶らが主力として加わり、和泉山脈を横切る孝子峠に向かう。
この孝子峠は、和泉と紀伊との国境に位置している重要な地点であったため、雑賀衆はここで織田勢を迎え撃とうとしたのである。
しかし織田勢の主力に撃破された雑賀衆は退き、その勢いに乗った織田勢は峠を下って中野城に向かった。
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中野城の戦い(なかのじょうのたたかい) [織田信長の紀伊平定]
1577年2月22日 ~ 28日
和歌山県和歌山市中野
孝子峠を突破した織田勢は、紀伊に侵入して雑賀衆の拠る紀伊中野城を包囲した。
弥勒寺山城に本陣をおいた雑賀衆は、和泉との国境に近いこの中野城を前線基地とし周囲に城砦を築いて織田勢を迎え撃とうとしていたのである。
水運の便に恵まれた中野城は、戦略物資の輸送には適していたが、2月22日に織田勢の大軍の前に降伏した。
中野城を奪取した織田勢が、ここを前線基地として雑賀の本陣の雑賀城に迫ることになる。
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信貴山城の戦い(しぎさんじょうのたたかい) [松永久秀の謀反]
1577年10月5日 ~ 10日
奈良県生駒郡平群町信貴山
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本願寺の戦い(ほんがんじのたたかい) [石山合戦]
1578年4月5日 ~ 6日
大阪府大阪市中央区大阪城
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神吉城の戦い(かんきじょうのたたかい) [織田信長の播磨・但馬平定]
1578年6月27日 ~ 7月20日
兵庫県加古川市東神吉町
天正6年(1578年)4月、三木城攻めが中断に追い込まれると、織田信長は嫡男の織田信忠(すでに家督を譲られており織田家当主であった)を総大将とする援軍を播磨に送り込みます。
織田軍には明智光秀、滝川一益、佐久間信盛など名だたる武将がいたようです。6月27日、信忠は三木城の最も有力な支城である神吉城を包囲します。
織田軍3万に対し神吉城はおよそ2,000ほどの寡兵でした。7月15日に織田軍が総攻撃を始めます。
7月20日、しばらく耐えるも近親者の内通であえなく神吉城は落城し城主・神吉頼定が討死します。
これにより三木城は、瀬戸内海からの糧道を断たれることになったのである。 -
大島城の戦い(おおしまじょうのたたかい) [織田信長の甲斐・信濃平定]
1582年2月17日
長野県下伊那郡松川町元大島
織田信忠を大将とする織田勢は、2月14日に飯田城を落とすと、17日には、上伊那における武田方の拠点であった信濃大島城に迫る。
大島城には武田信玄の弟である武田信廉らが入って守っていたが、信廉は大した抵抗もすることなく大島城を放棄して甲斐へ退却した。大島城の城将・日向宗栄(是吉)は自刃した。
信忠は大島城に河尻秀隆・毛利秀頼を入れると、自身は軍を進め、飯島に着陣した。 -
高遠城の戦い(たかとおじょうのたたかい) [織田信長の甲斐・信濃平定]
1582年3月2日
長野県伊那市高遠町東高遠
伊那から侵入した織田信忠の軍勢に対し、もともと武田氏に服属を余儀なくされていた信濃の国衆は抗戦しなかった。
しかし武田勝頼の実弟である仁科盛信だけは、居城の信濃高遠城にて織田勢を迎え撃とうとしていた。
織田信長から「援軍を派遣するから待機せよ」との指示が出ていたにもかかわらず、織田信忠はこれを無視して2月23日より約30,000の兵で高遠城の包囲を始めた。
高遠城主は援軍が期待できない中、約500人の手勢で迎え撃つ。
まず信忠は他の武田方の城を落としたように、黄金と書状を送って降伏勧告を行うものの、仁科盛信は使者の耳を削いで追い払った。
これを受けて3月2日に織田軍は総攻撃を開始。東西南北の各門をいっせいにこじ開け、一気に本丸へと迫った。
高遠城はその日のうちに落城し、仁科盛信は自刃、城兵400余がことごとく討死し全員玉砕したという。
戦後、領民達は仁科盛信の戦いぶりを讃えて「新城神」として崇拝したという。
現在も長野県歌「信濃の国」の歌詞にうたわれるなど、広く愛されている。 -
二条御所の戦い(にじょうごしょのたたかい) [本能寺の変]
1582年6月2日
京都府京都市中京区金吹町
二条城
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