武将名鑑【新信長の野望】
藤堂高虎(とうどうたかとら)
藤堂高虎(とうどうたかとら)
徳川家康以外の7名の戦国大名に仕えたことがあり、最終的には伊勢国安濃津32万石を与えられる。
藤堂高虎 の能力値 | |||||
---|---|---|---|---|---|
統率
武将が出撃部隊の主将を務めた際、部隊兵数に影響。 |
373 (44 位) | ||||
武勇
武将が出撃部隊の先鋒を務めた場合、部隊の攻防バフに影響。 |
364 (46 位) | ||||
智略
武将が出撃部隊の参謀を務めた場合、部隊の攻防バフに影響。 |
546 (11 位) | ||||
内政
武将委任時の修復効果と所属部隊の採集効率に影響。 |
278 (37 位) | ||||
合計 | 1561 (33 位)84人中 | ||||
戦闘力 | 19870 |
その他のデータ | 歴史 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
レアリティ | 浅井氏とその旧臣・織田信澄、豊臣氏、徳川氏に相次いで仕えた。主君が変わるたびに俸禄が上がり、各地戦役で活躍、城池の建設を数多く任されたこともある。 | ||||||||||
タイプ | 智 | ||||||||||
適正 | 参謀 | ||||||||||
兵科 | 忍者 | ||||||||||
逸話 | |||||||||||
加藤嘉明とは不仲だったが、会津藩主の推薦時に「個人の不仲は私事であって、国事という大事の前には無用」と言って、加藤嘉明を推薦している。 | |||||||||||
コメント | |||||||||||
自忍者部隊の攻撃力をUP。 3ターン目から2ターンおきに自部隊の攻撃力をUP、忍者部隊であれば確率で防御力もUP。 |
藤堂高虎が登場する合戦
-
冠山城の戦い(かんむりやまじょうのたたかい) [織田信長の中国平定]
1582年4月14日 ~ 25日
岡山県岡山市北区下足守
天正10年(1582年)3月、播磨姫路城を出陣して備前岡山城に着陣した羽柴秀吉は、備中高校城の清水宗治を勧降するが拒否されてしまう。
これにより高松城攻めを決めた秀吉は、秀吉率いる織田勢2万と宇喜多忠家率いる宇喜多勢1万で、4月14日、高松城の支城である備中冠山城を包囲した。
このとき城主・林重真は、清水宗治の娘を娶っており、備中半国を与えるという恩賞の約束を断ったという。4月25日、城内から出火し、たちまち燃え広がって冠山城は混乱に陥り、織田・宇喜多勢の総攻撃もあり落城。
一番乗りを果たしたのは当時21歳の加藤清正で、毛利方の竹井将監を討ち取り、藤堂高虎も竹本幸之助を討ち取っている。城主・林重真が自刃し、城兵300余が討死した。
-
八尾の戦い(やおのたたかい) [大坂夏の陣]
1615年5月6日
大阪府八尾市一帯
南下する徳川本隊を攻撃するべく木村重成とともに大坂城を打って出た長宗我部盛親は、八尾に布陣しました。
徳川方の先鋒である藤堂高虎は、一隊で若江の木村重成を牽制しつつ、主力をもって長宗我部隊を攻撃します。
藤堂勢の中備を務める藤堂高吉は萱振村に進んできていた長宗我部勢先鋒・吉田重親を攻撃します。吉田は本隊に対し攻撃を受けている旨を伝令し、応戦したが壊滅し吉田は討死。
藤堂勢の左先鋒の藤堂高刑・桑名吉成らは道明寺へ向かう先頭にあったが、転進して玉串川を越え長瀬川の長宗我部盛親本隊に迫ります。
藤堂高虎の旗本の藤堂氏勝もそれに続きます。吉田の知らせをうけた長宗我部盛親は、騎馬武者もすべて下馬させ、槍を持たせて長瀬川の堤防の上に伏せさせ迎撃の体勢を取った。
藤堂勢が充分近づいたところで一斉に立ち、槍を入れさせたため藤堂勢は壊乱し、藤堂高刑・桑名吉成は戦死、藤堂氏勝は致命傷を負い退却中に死亡します。
藤堂高吉も来援するが、長宗我部勢に圧倒され撃退。
旧主と戦った中内源兵衛も討死し、260余を討ち取られた藤堂勢は窮地に陥る。正午頃まで戦闘は続くも、若江の木村重成の敗報が届いたため長宗我部勢は孤立を避けるため坂城へ撤退を始めます。
藤堂勢は追撃し、殿を務めていた増田盛次を討ち取った。
-
岡山口の戦い (おかやまぐちのたたかい) [大坂夏の陣]
1615年5月7日
大阪府大阪市生野区勝山北・南一帯
徳川秀忠 (36)前田利常 (22)本多康俊 (46)本多康紀 (36)片桐且元 (59)井伊直孝 (25)藤堂高虎 (59)細川忠興 (52)黒田長政 (47)加藤嘉明 (52)立花宗茂 (48)土井利勝 (42)本多正信 (77)三枝昌貞 (78)本多忠純 (29)WIN
大野治房 (43)LOSE
5月7日、ついに徳川家康は大坂城に総攻撃をかける。
このとき家康は子の秀忠を岡山口の総大将としました。
先鋒は大将を前田利常とし本多康俊、本多康紀、片桐且元ら計20,000。
二番手は井伊直孝、藤堂高虎勢の計7,500と細川忠興隊。その後方に徳川秀忠の本陣23,000を置いた。
一説には一番手と二番手の間に黒田長政、加藤嘉明が参陣していたといわれる。徳川秀忠は天王寺方面の銃声を聞き進撃を開始。
このとき立花宗茂は秀忠本陣が突出しては敵の突擊を誘うため後退すべきと建言したが聞き入れられなかった。戦闘が始まると先鋒の前田勢は大野治房勢に崩され、これを支援するために二番手の井伊直孝、藤堂高虎勢が動く。
この陣立ての乱れに乗じた大野勢が秀忠本陣に殺到し、旗本先手の土井利勝勢が崩れ一時大混乱となった。そのため秀忠自身が鑓を手に取り戦おうとするが、本多正信は「大局的に見れば味方は勝っており将軍自ら手を下す必要はない」と諫め止めたという。
黒田長政、加藤嘉明勢によって敵を防ぎつつ秀忠は本陣を後退させようとしたが、立花宗茂は敵は疲態でこれ以上の攻撃できず、また後退すると士気が下がると再び建言した。
旗奉行の三枝昌吉が旗を立て直すと散っていた将兵が集まりだし、次第に秀忠軍は攻勢をはね除け反撃に転じ始めた。この間、後詰の大野治長、七手組は秀頼の出馬を待っていたが、淀殿の説得に手間取り秀頼が出馬した頃には家康・秀忠本陣に突撃した豊臣方の軍勢はすでに撃退されていた。
体勢を立て直した幕府方の圧倒的兵力と火力の前に豊臣方の陣立ては15時頃には崩れ、毛利勝永指揮の殿のもとに城内へ総退却した。
藤堂高虎が登場する記事一覧
おすすめ記事一覧
-
歴史イベント
【新解釈】本能寺の変の真実!光秀が謀反を決意した真の動機とは?
-
ランキング
戦国武将のかっこいい異名・あだ名ランキングTOP10
-
ランキング
障害が残るほどの苦悩、遺書を残し死を覚悟した懺悔など黒田官兵衛の大ピンチTOP3!!
-
ランキング
織田信長を裏切り窮地に陥れた戦国武将ランキングTOP5
-
戦国時代の逸話
豊臣秀吉の指は6本あった?その真相に迫る【戦国時代の逸話】
-
どうする家康
「無」を掲げた徳川四天王・榊原康政(さかきばらやすまさ)とは?【マイナー武将列伝】
-
ランキング
戦国武将の変な名前ランキング!!
-
戦国時代の逸話
直江兼続が家康に送った「直江状」とは?痛烈な皮肉がたーぷり【戦国時代の逸話】
-
戦国時代の暮らし
戦国武将たちのセックス事情はどんなだった?【戦国時代の暮らし】
-
どうする家康
なぜ豊臣家に出奔したのか!?徳川家康の右腕であった石川数正(いしかわかずまさ)とは?【メジャー武将列伝】
-
どうする家康
家康から最も信頼された同級生・平岩親吉(ひらいわちかよし)とは?【マイナー武将列伝】
-
どうする家康
家康につかなかったため滅ぼされた三河武士、鵜殿長照(うどのながてる)とは?【マイナー武将列伝】
-
メジャー武将列伝
家康はどんな人質時代を送っていたのか?【メジャー武将列伝】
-
メジャー武将列伝
家康はなぜ松平から徳川に改姓したのか?【メジャー武将列伝】
-
戦国時代の女性
徳川家を苦しめた妖刀「村正」【戦国時代の逸話】
-
マイナー武将列伝
鳥居忠吉(とりいただよし)は何をした人?息子と共に三河武士の鑑と称された男【マイナー武将列伝】
-
蟹江七本槍
大久保忠世(おおくぼただよ)は何をした人?徳川家臣No.5の実力は?【マイナー武将列伝】