武将名鑑【新信長の野望】
福留親政(ふくどめちかまさ)
福留親政(ふくどめちかまさ)
長宗我部氏の家臣。
福留親政 の能力値 | |||||
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統率
武将が出撃部隊の主将を務めた際、部隊兵数に影響。 |
354 (52 位) | ||||
武勇
武将が出撃部隊の先鋒を務めた場合、部隊の攻防バフに影響。 |
546 (10 位) | ||||
智略
武将が出撃部隊の参謀を務めた場合、部隊の攻防バフに影響。 |
239 (76 位) | ||||
内政
武将委任時の修復効果と所属部隊の採集効率に影響。 |
118 (83 位) | ||||
合計 | 1257 (63 位)84人中 | ||||
戦闘力 | 18121 |
その他のデータ | 歴史 | ||||||||||
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レアリティ | 安芸氏との戦いで活躍した。主君の元親から21通もの感謝状を送られ、家中でも指折りの猛将だったが、南伊予の攻略戦で戦死した。 | ||||||||||
タイプ | 武 | ||||||||||
適正 | 先鋒 | ||||||||||
兵科 | 槍兵 | ||||||||||
逸話 | |||||||||||
1563年主君の元親が本山城討伐へ行っている間に攻めてきた安芸国虎を倒し、37人を討伐、「福留の荒切り」と呼ばれた。 | |||||||||||
コメント | |||||||||||
自槍兵部隊の攻撃力をUP。 3ターン目から2ターンおきにランダムな敵部隊にダメージを与える。 |
福留親政が登場する合戦
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長浜表の戦い(ながはまおもてのたたかい) [長宗我部元親の土佐平定]
1560年5月27日 ~ 27日
高知県高知市長浜周辺
弘治元年(1555)頃から土佐中央部の支配をめぐって土佐七雄の長宗我部国親と本山茂辰は争うようになっていた。
国親は本山領への侵攻を画策するも、本山方の前線にあった長浜城の守りが堅くなかなか攻めきれずにいた。
しかし長浜城の城門が経年劣化により建て替えの必要が出てきて、本山茂辰は築城技術に長けていた福留右馬丞(親政)を雇って修繕を命じた。
実は福留右馬丞はかつて長宗我部国親に仕えており、この報を聞いた国親は、福留右馬丞に帰参を許し所領を与える約束で内応させた。
そして永禄3年(1560年)5月27日、国親は大窪美作守が守る土佐長浜城を夜襲した。
福留右馬丞の手引きで城門を突破すると、城兵は無抵抗で城を明け渡した。
本山茂辰は長浜城が攻撃された知らせを聞き、長浜城を救援するため居城の本山城から出陣する。
翌28日朝、長宗我部軍は長浜城から南の慶雲寺に出陣し、一方の本山軍はその西の日出野に陣を構え、午前10時頃から両軍は長浜表で激突する(戸ノ本の戦い)。
当初は数で勝る本山軍が優勢だったが、乱戦の末長宗我部軍が押し返し、本山軍は浦戸城へ退く。
長宗我部軍は追撃し浦戸城を包囲するも、国親が急病のため数日後に退却した。
長宗我部国親の嫡男・元親は、この戸ノ本の戦いが22歳での遅い初陣であった。
元親は幼少の頃、長身だが色白で大人しかったため「姫若子」揶揄されるほど虚弱だった。
初陣前に家臣の秦泉寺泰惟(豊後)から槍の使い方と大将の行動の指導を受ける有様であった。
秦泉寺泰惟(じんぜんじやすこれ)は何をした人?長宗我部元親の才能を開花させた人【マイナー武将列伝】
しかしいざ戦闘が開始されると、元親は50騎を率いて70余の首を上げ、自らも騎馬武者を2人討ち取るという戦いぶりを見せた。
さらに元親は勝戦の余勢を駆り、国親らの制止を振り切って本山方の支城・潮江城を無人と踏んで突入し、城を奪取した。
このめまぐるしい活躍により、元親はそれ以後「鬼若子」「出来人」と畏怖されるようになったという。
元親の弟の親貞もこの戦いで初陣を飾っている。
この戦いに敗れた本山茂辰は、こののち長浜城と浦戸城を国親によって攻略され衰退の途を辿った。
急病を発した国親は、岡豊城での治療も功を奏せず間もなく死去する。
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