武将名鑑【新信長の野望】
北条氏政(ほうじょううじまさ)
北条氏政(ほうじょううじまさ)
後北条氏第4代当主、氏康の嫡子。
北条氏政 の能力値 | |||||
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統率
武将が出撃部隊の主将を務めた際、部隊兵数に影響。 |
324 (59 位) | ||||
武勇
武将が出撃部隊の先鋒を務めた場合、部隊の攻防バフに影響。 |
271 (64 位) | ||||
智略
武将が出撃部隊の参謀を務めた場合、部隊の攻防バフに影響。 |
318 (64 位) | ||||
内政
武将委任時の修復効果と所属部隊の採集効率に影響。 |
543 (5 位) | ||||
合計 | 1456 (48 位)84人中 | ||||
戦闘力 | 24797 |
その他のデータ | 歴史 | ||||||||||
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レアリティ | 優秀な弟たちや家臣団の支えを得て、北条家の地位を確立する。豊臣秀吉打倒を目指した小田原征伐で破れて自害した。 | ||||||||||
タイプ | 政 | ||||||||||
適正 | 主将 | ||||||||||
兵科 | 農兵 | ||||||||||
逸話 | |||||||||||
愛妻家として有名。武田氏の駿河侵攻により正室・黄梅院との離婚を迫られるが、最後まで拒否する。父・氏康の死後に武田氏と和睦すると、真っ先に正室の遺骨を貰い受け手厚く葬っている。 | |||||||||||
コメント | |||||||||||
食料最終効率がUP。 納屋の保護量上限が上昇。 戦闘には不向き。 |
北条氏政が登場する合戦
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三浦沖の戦い(みうらおきのたたかい) [古河公方と上杉氏・北条氏]
1556年3月10日
神奈川県三浦市
北条氏綱が天文10年(1541年)に死去したあとも、子の氏康が引き続き、江戸湾の制海権を握るため上総に進出していた久留里城主の里見義堯に対する攻勢を強めていた。
弘治2年(1556年)3月10日、義堯は氏康の上総侵攻の機先を制するため、子の義弘を総大将に正木時茂・土岐頼定ら5000余の軍勢と軍船数十艘で三浦沖まで渡海した。
これに対し北条側は、氏康や息子の氏政らが城ヶ島に布陣し、里見勢を迎え撃つ。
この海戦で、里見勢は上陸には成功したものの、三浦半島を制圧するに至らずに上総へ退却した。
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古河御所の戦い(こがごしょのたたかい) [古河公方と上杉氏・北条氏]
1562年10月
埼玉県河越市郭町
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第二次国府台の戦い(だいにじこうのだいのたたかい) [古河公方と上杉氏・北条氏]
1564年1月8日 ~ 9日
千葉県市川市国府台
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池和田城の戦い(いけわだじょうのたたかい) [古河公方と上杉氏・北条氏]
1564年7月20日
千葉県市原市池和田
永禄7年(1564年)の国府台の戦い後、相模の北条氏政は上総の里見義弘への攻勢を強めていく。
そうしたなかで氏政は10000騎を率いて、義弘配下の多賀高明の居城である上総池和田城を攻撃した。
もともと庁南武田氏の家臣であった多賀氏は、主家とともに里見氏に属するようになったもので、一族は国府台の戦いでが里見方として参陣している。
寄せ手の氏政らは西・北・南には深田があり東は高い山で囲まれた池和田城を攻めあぐね、周囲の民家を打ち壊し、その廃材や矢を堀切の埋め草として撃ち込ませたが、多賀高明の子の多賀蔵人・兵衛兄弟や正木大膳亮らの防戦に多くの死傷者を出しなかなか陥とせなかった。
しかし城内に内応者が出て、深夜に城は放火された。
城内は混乱し、北条軍は次々と城内に入り込み、7月20日に池和田城は陥落した。
多賀高明らは安房に落ちのびていった。
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関宿城の戦い(せきやどじょうのたたかい) [古河公方と上杉氏・北条氏]
1565年3月 ~ 5月
千葉県野田市関宿町
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三船山の戦い(みふねやまのたたかい) [古河公方と上杉氏・北条氏]
1567年8月23日
千葉県君津市小香
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関宿城の戦い(せきやどじょうのたたかい) [古河公方と上杉氏・北条氏]
1574年1月16日
千葉県野田市関宿町
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戸倉城の戦い(とくらじょうのたたかい) [織田信長の甲斐・信濃平定]
1582年2月28日
静岡県三島市徳倉
天正10年(1582年)2月、織田信長の甲斐攻めを受けて、北条氏政も武田勝頼の領国駿河へ侵攻し、伊豆戸倉城を攻撃した。
戸倉城を守る笠原政晴(政尭)は、氏政の重臣・松田憲秀の子であったが、武田方に寝返っていたものである。
28日の総攻撃により、武田勢500余が討ち取られたという。
戸倉城の落城により、駿河の三枚橋城や深沢城などの武田方の諸城も自落した。
後に笠原政晴は一命を助けられ、北条氏に帰参している。
三谷幸喜監督の映画「ステキな金縛り」に出て来る北条家の落ち武者「更科六兵衛」のモデルは、この笠原政晴のようです。
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三島の戦い(みしまのたたかい) [天正壬午の乱]
1582年9月25日
静岡県三島市一帯
天正10年(1582年)3月に武田氏か滅亡すると、武田氏の領国であった駿河は、織田信長によって徳川家康の領有とされていた。
本能寺の変による混乱で、織田氏と同じく武田を攻めていた北条氏政・氏直らは駿河方面に出陣した。北条氏規はこの先陣の総大将に任じられている。
徳川家臣で駿河国沼津の三枚橋城将・松平康親と、氏政の家臣で伊豆韮山城将・北条氏規とが伊豆の三島で衝突し、家康の家臣の小笠原安次らが討死した。
三枚橋城は落城せず、9月25日には氏政も出陣したものの城の攻略はできなかったが、北条氏は御厨地域を征圧した。
以後松平康親・康重と2代にわたり約8年間、三枚橋城を拠点に北条氏と戦う。
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小田原城の戦い(おだわらじょうのたたかい) [豊臣秀吉の関東平定]
1590年4月3日 ~ 7月5日
神奈川県小田原市城内
小田原城
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