武将名鑑【覇道】
上杉謙信(うえすぎけんしん)
上杉謙信(うえすぎけんしん)
上杉謙信 の能力値 | |||||
---|---|---|---|---|---|
統率
部隊の攻撃や防御を定め、通常攻撃のダメージに影響 |
890 (2 位) | ||||
武勇
部隊の武勇を定め、武勇戦法ダメージ、状態変化率に影響 |
900 (1 位) | ||||
知略
部隊の知略を定め、知略戦法のダメージ、状態変化率に影響 |
630 (23 位) | ||||
政治
部隊の破壊を定め、要所や城門などへのダメージに影響 |
548 (31 位) | ||||
合計 | 2968 (8 位)105人中 | ||||
戦闘力 | 5438 | ||||
天賦 | 900 | ||||
s | |||||
s | |||||
b |
その他のデータ | 歴史 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
レアリティ | 越後の戦国大名。為景の次男。上杉憲政から関東管領職を譲られ、上杉姓を名乗る。「毘」の軍旗を翻して疾駆する姿は軍神と恐れられた。通称「越後の龍」。 | ||||||||||
声優(CV) | 唐戸俊太郎 | ||||||||||
戦法 | |||||||||||
毘沙門天 | 自身1部隊の弱化効果を全て打ち消す 自身と一門衆を含む味方3部隊に見切を付与 対象を含む敵3部隊に武勇300%の攻撃 |
||||||||||
上杉謙信は武神「毘沙門天」の熱心な信仰家で、本陣の旗印にも「毘」の文字を使った。 |
技能
武略
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 部隊の攻撃速度+5% |
Ⅱ | 部隊の攻撃速度+8% |
Ⅲ | 部隊の攻撃速度+15% |
警戒
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 矢倉に任命した場合、任命効果+8% |
Ⅱ | 矢倉に任命した場合、任命効果+16% |
Ⅲ | 矢倉に任命した場合、任命効果+24% |
神将
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 自身が大将の場合、全ての兵科に対して相性が良くなる |
秘伝
義戦
条件 : 大将に配置し、副将と同じ縁が1以上
系統 : 戦法
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 習得した武将の戦法による見切の効果時間+3秒 習得武将の戦法攻撃時、30%の確率で攻撃対象部隊+1(上限4) |
Ⅱ | 習得した武将の戦法による見切の効果時間+3秒 習得武将の戦法攻撃時、40%の確率で攻撃対象部隊+1(上限4) |
Ⅲ | 習得した武将の戦法による見切の効果時間+3秒 習得武将の戦法攻撃時、50%の確率で攻撃対象部隊+1(上限4) |
Ⅳ | 習得した武将の戦法による見切の効果時間+3秒 習得武将の戦法攻撃時、80%の確率で攻撃対象部隊+1(上限4) |
Ⅴ | 習得した武将の戦法による見切の効果時間+3秒 習得武将の戦法攻撃時、100%の確率で攻撃対象部隊+1(上限4) |
上杉謙信が登場する合戦
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黒滝城の戦い(くろたきじょうのたたかい) [長尾為景の越後・越中平定]
1545年10月12日
新潟県西蒲原郡弥彦村麓
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北条城の戦い(きたじょうじょうのたたかい) [武田晴信の美濃平定]
1555年2月
新潟県柏崎市北条
-
犀川の戦い(さいがわのたたかい) [武田晴信の美濃平定]
1555年7月19日
長野県長野市青木島町大塚
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駒返の戦い(こまがえりのたたかい) [武田晴信の美濃平定]
1556年8月23日
新潟県糸魚市青海
上杉謙信像
弘治2年(1556年)8月、越後箕冠城主の大熊朝秀は武田晴信(信玄)の再三の誘いに応じて、長尾景虎(上杉謙信)から離反した。
もともと守護上杉氏の家臣であった大熊氏は、主家の滅亡により守護代の長尾氏に仕えており、この時期、家中内の守護上杉家派と守護代長尾家派の派閥対立が激化していた。
守護代長尾家派の本庄実乃は、幼少期の景虎の器量を見抜いて、早くから栃尾城に迎えてその側近となっていた。
景虎は、本庄実乃ら側近の進言を聞き入れ、大熊朝秀ら旧臣を要職から排除し、朝秀の進言を聞き入れなくなっていたため朝秀は離反したのである。
大熊朝秀は居城の箕冠城を捨て、越中へ退き一揆を扇動し武田軍の援軍を待った。
大熊朝秀は陸奥黒川城主である蘆名盛氏の支援を得るも、還俗して春日山城に戻った上杉謙信は、素早く軍を編成し、8月23日に庄田賢秀・上野家成らと共に越後駒返にて進撃して来た朝秀軍を打ち破った。
敗れた大熊朝秀はこののち武田氏に身を寄せ、天正10年(1582年)、田野の戦いで武田勝頼に殉じている。
今回紹介するのは、陸奥国の戦国大名である津軽為信(つがるためのぶ)です。
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上野原の戦い(うえのはらのたたかい) [武田晴信の美濃平定]
1557年8月29日
長野県長野市上野
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富山城の戦い(とやまじょうのたたかい) [上杉謙信の越中平定]
1560年3月30日
富山県富山市星井町
富山市役所から見た富山城
永禄2年(1559年)夏、神保長職が再び椎名氏への攻勢を強めたため、椎名康胤は越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)に援軍を要請し、永禄3年(1560年)3月、上杉軍の支援もあり富山城・増山城を陥落させ、神保長職を撃退した。
富山城を脱出した長職は砺波の増山城に逃れ抵抗するも、景虎の追撃を受けると夜陰に乗じて国外に逃亡を図る。
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小田原城の戦い(おだわらじょうのたたかい) [古河公方と上杉氏・北条氏]
1561年3月13日
神奈川県小田原市城内
小田原城
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川中島の戦い(かわなかしまのたたかい) [武田晴信の美濃平定]
1561年9月10日
長野県長野市小島田町周辺
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祇園城の戦い(ぎおんじょうのたたかい) [古河公方と上杉氏・北条氏]
1563年4月
栃木県小山市城山町
永禄6年(1563年)、太田資正の支配する武蔵松山城が陥落し、北条氏康の勢力が再び強まると、3月に下野祇園(小山)城主の小山秀綱が上杉輝虎(謙信)から離反し、北条氏に内応した。
翌月、これに対し輝虎は常陸太田城主の佐竹義昭や下野宇都宮城主の宇都宮広綱とともに祇園城を攻撃した。
支えきれないと判断した秀綱は、人質を越後国春日山城に送り降伏したため、一命は助けられている。
しかし秀綱は、その翌年には再度北条氏に通じている。
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小田城の戦い(おだじょうのたたかい) [佐竹義昭と小田氏治]
1564年1月29日
茨城県つくば市小田
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唐沢山城の戦い(からさわやまじょうのたたかい) [古河公方と上杉氏・北条氏]
1564年2月17日
栃木県佐野市富士町
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唐沢山城の戦い(からさわやまじょうのたたかい) [古河公方と上杉氏・北条氏]
1564年10月27日
栃木県佐野市富士町
永禄7年(1564年)2月の唐沢山城の戦いで上杉輝虎(謙信)に敗れて降伏していた下野唐沢山城主の佐野昌綱は、輝虎が下野を去ったその年の10月に再び北条氏康に通じ、輝虎から離反する。
唐沢山城は上杉軍が上野の厩橋城から関東の中心へ進軍する際の重要な拠点であったため、この報せをうけた輝虎は速やかに越後春日山城を出陣し、三箇峠を越えて10月24日に上野沼田城に入ると唐沢山城を攻撃した。
10回近い唐沢山城の戦いの中でも最大の激戦となった。
唐沢山城は険しい山頂にあり、水も豊富であったため、攻略は容易ではなかった。
しかし、昌綱が頼りとする北条氏は安房の里見義堯と国府台で戦っていたため、援軍を送ることができなかった。
昌綱は孤立無援の状況で守り切ることが難しく、常陸の佐竹義昭と下野の宇都宮広綱の説得に従い、10月27日に降伏した。
輝虎は佐野氏の家督を継がせようとしていた虎房丸と佐野氏の人質30余人を連れ、越後に帰国する。
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小田城の戦い(おだじょうのたたかい) [佐竹義昭と小田氏治]
1566年2月16日
茨城県つくば市小田
-
臼井城の戦い(うすいじょうのたたかい) [古河公方と上杉氏・北条氏]
1566年3月 ~ 5月9日
千葉県佐倉市臼井
永禄8年(1566年)11月に関東へ出陣した上杉輝虎(謙信)は、翌永禄9年(1567年)2月、小田城の戦いで小田氏治の居城である常陸小田城を落とす。
勢いに乗った輝虎は、3月20日、北条氏康と結ぶ千葉胤富の家臣・原胤貞が守る下総臼井城の攻略を図る。
上杉勢が有利に戦闘を進め臼井城は落城寸前に陥ったが、原胤貞より指揮を託された軍師・白井入道浄三の知謀により何とか持ち堪えていた。
その間に北条氏康と千葉胤富がそれぞれ援軍が到着し、この戦いでの活躍を赤鬼と畏怖されるようになる北条軍・松田康郷の武勇によって、情勢が変化。
3月23日には上杉勢は数千人の死傷者を出て、24日には上杉勢の敗北が決定的となった。
これをみた輝虎は臼井城の攻略を断念し、5月9日に越後へ帰国している。
この臼井城での敗北により、上杉謙信から常陸・上野・下野の諸将が離れていくこととなり、関東平定が困難な状況に陥った。
このことが北条氏からの越相同盟の申し入れを受け入れる原因のひとつになったといわれる。
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松倉城の戦い(まつくらじょうのたたかい) [上杉謙信の越中平定]
1569年10月6日
富山県魚津市鹿熊
上杉輝虎(謙信)の関東出陣中の居・城春日山城の留守を任せるなど椎名康胤は信頼を寄せられていたが、次第に上杉氏からの自立を図るようになり、甲斐国の武田信玄の調略に応じた。
武田信玄や上杉氏に反旗を翻した椎名康胤を討つため、永禄11年(1568年)3月、上杉輝虎は越中に出陣して守山城を攻めたが、このときは本庄繁長の謀反の急報が届き越後に帰陣する。
翌永禄12年(1569年)8月20日、再び越中に出陣した輝虎が松倉城を攻める。
越中三大山城にも数えられる名城である松倉城は天然の要害であり、容易には落ちなかったが、10月6日に松倉城を落とし敗れた康胤は落ちのびた。
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富山城の戦い(とやまじょうのたたかい) [上杉謙信の越中平定]
1571年3月15日 ~ 18日
富山県富山市星井町
富山城
永禄12年(1569年)の松倉城の戦いに敗れた椎名康胤は、一向一揆とともに上杉謙信に対する抵抗を続けていた。
元亀2年(1571年)3月、謙信は2万8千の大軍で越中に侵攻し、数年に渡り頑強に抵抗してきた松倉城を落城させ、その後康胤の属城となっていた富山城を攻囲する。
このとき康胤は後詰を富山城に送ったが、謙信配下の越中魚津城将である河田長親に阻まれ、城を守っていた康胤の家臣の飯坂隼人佐らがことごとく討死して富山城は落城してしまう。
上杉軍は新庄城・守山城等、多数の城を攻め落とし、越中の東部から中部、さらに西部にまで破竹の勢いで進撃し、椎名康胤や一揆勢を圧倒した。
こののち謙信は富山城を河田長親に守らせた。
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尻垂坂の戦い(しりたれざかのたたかい) [上杉謙信の越中平定]
1572年8月
富山県富山市西新庄
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守山城の戦い(もりやまじょうのたたかい) [織田信長の北陸平定]
1576年9月
富山県高岡市東海老坂
越中に勢威を誇った神保氏の嫡流である神保長住は没落し庶流にあたる神保氏張が、織田信長に通じて上杉謙信に抵抗を続けていた。
天正4年(1576年)3月、上杉謙信は永禄5年(1562年)頃から神保氏張の居城となっていた守山城を落とすべく越中に侵攻したが、大雨で増水していたたため撤退する。
9月に再び侵攻した謙信は、守山城を落とし氏張は一時上杉氏に従属した。 -
第一次七尾城の戦い(だいいちじななおじょうのたたかい) [織田信長の北陸平定]
1576年11月17日 ~ 1577年4月12日
石川県七尾市古城町
七尾城跡本丸からの七尾市街と能登島
天正4年(1576年)11月、上杉謙信が能登に侵攻して能登守護畠山氏の居城である七尾城を包囲した。
謙信は、かつて人質(養子扱い)として差し出されていた上条政繁(畠山義春)を新たな畠山氏の当主として擁立し、かねてから乱れている能登の治安を回復するという大義名分の基に能登攻めを開始していた。畠山氏の当主はわずか5歳の畠山春王丸だったので、老臣筆頭の長続連らが織田信長に通じ、七尾城の兵2,000で徹底抗戦する方針を取った。
長続連が七尾城の大手口、温井景隆が古府谷、遊佐続光が蹴落口をそれぞれ守備することを決めた。畠山義総によって築かれた難攻不落さで縄張りも広く堅城である七尾城は一年にわたって持ちこたえ、支城を攻め落とし七尾城を孤立させていたものの攻めあぐねた謙信は、相模の北条氏に背後を衝かれる恐れがでたため、翌天正5年4月12日に居城の春日山城に帰陣した。
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第二次七尾城の戦い(だいにじななおじょうのたたかい) [織田信長の北陸平定]
1577年7月 ~ 9月15日
石川県七尾市古城町
七尾城
天正5年(1577年)4月に能登七尾城から退陣した上杉謙信は、北条軍の侵攻は大規模なものではなかったため領国の仕置を済ませ、閏7月に再度能登に出陣した。
これに対し七尾城主の畠山春王丸を擁する長続連は籠城を決める。
さらに今回、続連は領民に対して徹底抗戦を呼びかけ、半ば強制的に領民を七尾城に籠もらせていたので、城内は城兵と領民合わせて15,000人の大人数となっていた。長続連は安土城の織田信長に僧籍にあった息子の長連龍を使者として派遣して援軍を要請した。
信長は了承し8月8日に柴田勝家を総大将とした織田軍を能登に派遣した。上杉謙信は織田軍の援軍を翌日に察知し、加賀の一向宗の総領である七里頼周に対して織田軍の進行を妨害するように求め、自身は石動山に本陣を置き七尾城を攻撃した。
七尾城は堅城なので攻撃を耐えていたが、城内で疫病が発生し、疫病で死ぬ城兵や領民が相次いだ。
当主の畠山春王丸も疫病で死去してしまう。
窮した長続連は小伊勢村の八郎右衛門に一揆を起こすよう扇動するも、上杉謙信に鎮圧される。
落城寸前の状況下で、かねてから親謙信派の遊佐続光はとうとう謙信の呼びかけに応じて、温井景隆や三宅長盛兄弟らもこれに結託し内応しようとしていた。
彼らは筆頭老臣で親信長派の長続連を快く思っておらず、9月13日付で謙信に対して内応了承の書状を送った。この日は中秋の名月の日で、本陣で月見の宴を催していた謙信は「霜満軍営秋気清(霜は軍営に満ちて秋気清し)。数行過雁月三更(数行の過雁月三更)。越山併得能州景(越山併せ得たり能州の景)。遮莫家郷憶遠征(さもあらばあれ家郷遠征を憶うは)」という七言絶句、いわゆる『十三夜の詩』を口にしたと伝わっている。
9月15日、遊佐続光・温井景隆・三宅長盛兄弟らは十五夜の月の日に城内で反乱を起こし、城門を開けて上杉軍を招き入れた。
この反乱により長続連・綱連父子や、綱連の弟の長則直、子の竹松丸と弥九郎らの長一族100余人がことごとく討ち取られた。
長一族で唯一生き残ったのは、信長のもとに援軍を要請に行った長連龍と、綱連の末子である菊末丸のみであった。
七尾城は謙信の手中に帰して、能登を完全に支配下に入れた。
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手取川の戦い(てどりがわのたたかい) [織田信長の北陸平定]
1577年9月23日
石川県白山市美川南町・湊町周辺
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