武将名鑑【覇道】
三好長慶(みよしながよし)
三好長慶(みよしながよし)
三好長慶 の能力値 | |||||
---|---|---|---|---|---|
統率
部隊の攻撃や防御を定め、通常攻撃のダメージに影響 |
765 (12 位) | ||||
武勇
部隊の武勇を定め、武勇戦法ダメージ、状態変化率に影響 |
577 (31 位) | ||||
知略
部隊の知略を定め、知略戦法のダメージ、状態変化率に影響 |
747 (11 位) | ||||
政治
部隊の破壊を定め、要所や城門などへのダメージに影響 |
807 (7 位) | ||||
合計 | 2896 (10 位)105人中 | ||||
戦闘力 | 5044 | ||||
天賦 | 850 | ||||
s | |||||
b | |||||
a |
その他のデータ | 歴史 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
レアリティ | 細川家臣。主家の実権を奪って勢力を拡げ、主君・晴元を追放して畿内の掌握に成功した。しかし嫡男・義興や弟たちの死後は心身に支障をきたし、病死した。 | ||||||||||
声優(CV) | 利根健太朗 | ||||||||||
戦法 | |||||||||||
副王 | 対象を含む敵3部隊の攻撃、知略、破壊を25%低下 対象を含む敵2部隊に知略250%の攻撃 |
||||||||||
三好長慶は「日本の副王」と呼ばれる程、当時随一の有力者として君臨していた。 |
技能
才気
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 部隊の知略+4% |
Ⅱ | 部隊の知略+7% |
Ⅲ | 部隊の知略+11% |
Ⅳ | 部隊の知略+17% |
Ⅴ | 部隊の知略+25% |
人脈
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 内政施設に任命した場合、同じ施設に任命されている全ての武将の能力値に対して7%を上乗せして計算する |
威光
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 自身が大将の場合、部隊の兵力+8% |
Ⅱ | 自身が大将の場合、部隊の兵力+11% |
Ⅲ | 自身が大将の場合、部隊の兵力+17% |
Ⅳ | 自身が大将の場合、部隊の兵力+25% |
Ⅴ | 自身が大将の場合、部隊の兵力+35% |
秘伝
棣鄂之情
条件 : 大将か攻撃(左)で、繋がった配置の武将と同じ縁が合計2以上
系統 : 戦法
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 習得した武将の戦法による攻撃低下の効果+4% 習得した武将の戦法の攻撃威力+20% |
Ⅱ | 習得した武将の戦法による攻撃低下の効果+4% 習得した武将の戦法の攻撃威力+30% |
Ⅲ | 習得した武将の戦法による攻撃低下の効果+4% 習得した武将の戦法の攻撃威力+40% |
Ⅳ | 習得した武将の戦法による攻撃低下の効果+4% 習得した武将の戦法の攻撃威力+50% |
Ⅴ | 習得した武将の戦法による攻撃低下の効果+4% 習得した武将の戦法の攻撃威力+60% |
三好長慶が登場する合戦
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一庫城の戦い(かずくらじょうのたたかい) [細川晴元と堺公方]
1541年8月12日 ~ 10月2日
兵庫県川西市一庫
-
太平寺の戦い(たいへいじのたたかい) [細川晴元と堺公方]
1542年3月17日
大阪府柏原市太平寺
-
井出城の戦い(いでじょうのたたかい) [細川晴元と細川氏綱]
1545年5月6日
京都府綴喜郡井出町
-
世木城の戦い(せきじょうのたたかい) [細川晴元と細川氏綱]
1545年7月27日
京都府南丹市日吉町
細川晴元と敵対していた細川氏綱に呼応し、丹羽守護代で丹波八木城主の内藤国貞も兵を挙げて上洛する勢いを見せた。
しかし、氏綱を支援していた河内守護の畠山植長が天文14年(1545年)5月に卒去すると、国貞は強力な後ろ盾を失って孤立してしまう。
7月27日、国貞は丹波世木城(関城)に拠って抵抗を続けるが、かねてより国貞と守護代職を争っていた八上城主の波多野秀忠が、細川晴元から派遣された三好政長・三好範長(長慶)らとともに世木城に押し寄せたため、支えきれずに開城した。
-
堺の戦い(さかいのたたかい) [細川晴元と細川氏綱]
1546年8月20日
大阪府堺市堺区
-
大塚城の戦い(おおつかじょうのたたかい) [細川晴元と細川氏綱]
1546年9月3日 ~ 4日
大阪府大阪市天王寺区茶臼山町
堺の戦いに勝利した細川氏綱・遊佐長教らは、勢いに乗じて和泉や河内など近在の国衆を糾合しながら摂津に侵攻する。
そして1546年(天文15年)9月3日に、細川晴元方の山中又三郎が守る摂津大塚城を攻撃した。
晴元方の三好範長・安宅冬康兄弟らが後詰に向かったものの、池田信正や三宅国村など伊丹親興をのぞく摂津の国衆がことごとく氏綱に帰服したため、大塚城は細川氏綱・遊佐長教連合軍によって落城した。
この大塚城は茶臼山砦や茶臼山陣城としても知られており、1614年(慶長19年)の大坂冬の陣では徳川家康が本陣をこの大塚城に構え、1615年(元和元年)の大坂夏の陣の際には、豊臣軍の真田信繁がここに着陣している。
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池田城の戦い(いけだじょうのたたかい) [細川晴元と細川氏綱]
1546年9月10日 ~ 1547年6月25日
大阪府池田市城山町
細川氏綱・畠山政国・遊佐長教らによる摂津侵攻により、伊丹親興をのぞく摂津国内の国衆はことごとく氏綱・政国に降った。
細川晴元は摂津を奪回するため、天文15年(1546年)9月10日、晴元を裏切り氏綱に帰服した摂津池田城の池田信正を攻撃する。
この攻撃で池田の町が放火されました。
籠城した信正は、晴元方の三好長慶・安宅冬康・伊丹親興らによる攻撃を1年近くにわたって凌いでいたが、翌天文16年(1547年)6月25日、摂津芥川城が陥落し、晴元方の軍勢が包囲陣に加わったため、信正は降伏した。
-
三宅城の戦い(みやけじょうのたたかい) [細川晴元と細川氏綱]
1547年2月25日 ~ 3月22日
大阪府茨木市丑寅・蔵垣内
天文16年(1547年)2月25日、摂津茨木に陣をおいた細川晴元は、家臣の三好範長(範長)・義賢(実休)兄弟に命じ、摂津三宅城の三宅国村を30000余の兵で攻撃させた。
細川高国の敗死後、その弟の晴国を擁して晴元に抵抗を続けていた国村は、晴国の敗死を機に晴元へ帰服したにもかかわらず、このとき摂津に侵攻した細川氏綱に寝返っていたためである。
3月15日、三宅城の外郭を落とされた国村は、22日についに降伏して逃亡。
-
勝軍地蔵山城の戦い(しょうぐんじぞうやまじょうのたたかい) [細川晴元と細川氏綱]
1547年7月12日 ~ 19日
京都府京都市左京区北白川
天文16年(1547年)7月、管領細川晴元と対立する第12代将軍の足利義晴は、征夷大将軍を息子の足利義輝に譲り自らは大御所となり、洛中の細川氏綱・近衛稙家らと結んで洛北の修築をした勝軍地蔵山城に籠城すると、晴元打倒の兵を挙げた。
これに対し、主力を氏綱方への抑えとして摂津・河内に残した晴元は、7月12日、摂津から入浴すると相国寺に本陣をおき、家臣の三好長慶や岳父の六角定頼が率いる2万の大軍とともに、勝軍地蔵山城を完全に包囲する。
※岳父・・・妻の父。義父。 -
舎利寺の戦い(しゃりじのたたかい) [細川晴元と細川氏綱]
1547年7月21日
大阪府大阪市生野区舎利寺
-
高屋城の戦い(たかやじょうのたたかい) [細川晴元と細川氏綱]
1547年8月11日 ~ 1548年4月24日
大阪府羽曳野市古市
-
伊丹城の戦い(いたみじょうのたたかい) [三好長慶と細川晴元]
1549年1月11日 ~ 1550年3月26日
兵庫県伊丹市伊丹
伊丹城(摂津有岡城)
細川晴元に反旗を翻した三好長慶に摂津の国衆が同調するなか、伊丹城主の伊丹親興や三宅国村や木沢長政らは長慶に抵抗し続けていた。
天文18年(1549年)正月11日、越水城から出陣した長慶は、伊丹親興を伊丹城に攻撃する。
これに対し晴元と三好政長の軍勢が後詰に向かったが、6月の江口の戦いで長慶が政長を敗死させ、晴元は近江に敗走した。
孤立した伊丹城は、京都を制圧した長慶に攻囲され、翌19年(1550年)3月28日、親興は遊佐長教の仲介で和睦に応じて開城した。
-
柴島城の戦い(くにじまじょうのたたかい) [三好長慶と細川晴元]
1549年3月1日
大阪府大阪市東淀川区柴島
-
江口の戦い(えぐちのたたかい) [三好長慶と細川晴元]
1549年6月24日
大阪府大阪市東淀川区
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中尾城の戦い(なかおじょうのたたかい) [三好長慶と細川晴元]
1550年11月21日
京都府京都市左京区浄土寺大山町
-
第二次八上城の戦い(だいにじやかみじょうのたたかい) [三好長慶と細川晴元]
1552年4月25日 ~ 5月23日
兵庫県篠山市八上内
八上城がある高城山
天文20年(1551年)の相国寺の戦いののち、三好長慶と足利義藤(義輝)・細川晴元との和睦は成立した。
しかしこの和睦に納得がいかなかった細川晴元は出家し家督を子の聡明丸(昭元)に譲ると、若狭・丹波に潜伏し長慶への抵抗を続けていた。
天文21年(1552年)5月、三好長慶が波多野晴通が守る丹波国八上城を攻めるが、長慶方として従軍していた芥川孫十郎や池田長正、小川氏が波多野氏に内通した。
そのため、長慶は摂津越水城へと引き上げた。 -
芥川城の戦い(あくたがわじょうのたたかい) [三好長慶と細川晴元]
1553年7月3日 ~ 8月22日
大阪府高槻市原
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霊山城の戦い(りょうぜんじょうのたたかい) [三好長慶と細川晴元]
1553年8月1日
京都府京都市東山区清閑霊山町
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高屋城の戦い(たかやじょうのたたかい) [三好長慶と細川晴元]
1559年8月2日
大阪府羽曳野市古市
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飯盛山城の戦い(いいもりやまじょうのたたかい) [三好長慶と細川晴元]
1560年10月24日
大阪府四条綴市南野
三好長慶の支援を受けて高屋城に復帰した河内守護の畠山高政は、河内に明るい安見宗房(直政)ら抜きでの分国支配が行き詰まったためか、密かに宗房と和睦していた。
これを知った長慶は、永禄3年(1560年)10月、河内に出陣すると畠山高政の高屋城と安見宗房が拠る飯盛山城の攻略に向かう。
紀伊の根来衆からの援軍を長慶に撃破され、後詰のあてがなくなったことで降伏し、10月24日には高政が高屋城を、27日には宗房が飯盛山城を明け渡して堺に退去した。
長慶が芥川城から飯盛山城に移ると、この城を拠点に五畿内(大和、山城、河内、摂津、和泉)と四国の一帯を統治し、高屋城には長慶の弟の三好実休が入っている。
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