武将名鑑【覇道】
細川藤孝(ほそかわふじたか)
細川藤孝(ほそかわふじたか)
細川藤孝 の能力値 | |||||
---|---|---|---|---|---|
統率
部隊の攻撃や防御を定め、通常攻撃のダメージに影響 |
607 (37 位) | ||||
武勇
部隊の武勇を定め、武勇戦法ダメージ、状態変化率に影響 |
599 (28 位) | ||||
知略
部隊の知略を定め、知略戦法のダメージ、状態変化率に影響 |
711 (14 位) | ||||
政治
部隊の破壊を定め、要所や城門などへのダメージに影響 |
751 (10 位) | ||||
合計 | 2668 (18 位)105人中 | ||||
戦闘力 | 4641 | ||||
天賦 | 800 | ||||
a | |||||
b | |||||
s |
その他のデータ | 歴史 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
レアリティ | 足利家臣。主君・義輝の横死後は義輝の弟・義昭の擁立に貢献した。その後は的確な情勢判断で細川家の命脈を保った。古今伝授を受けた文化人としても著名。 | ||||||||||
声優(CV) | 斎藤峻 | ||||||||||
戦法 | |||||||||||
古今伝授 | 自身と一門衆を含む味方3部隊の武勇、知略、破壊を25%上昇 | ||||||||||
「古今伝授」とは、古今和歌集の解釈を中心に、歌学や関連分野のいろいろな学説を師から弟子へ「秘説相承」のかたちで伝授することで、鎌倉~室町時代から作られたがそれぞれの流派が存在していた。 細川幽斎は、分かれた「古今伝授」を集大成した。 |
技能
遠射
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 部隊の射程+0.5 |
Ⅱ | 部隊の射程+1 |
Ⅲ | 部隊の射程+1.5 |
伐採
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 材木所に任命した場合、任命効果+8% |
Ⅱ | 材木所に任命した場合、任命効果+16% |
Ⅲ | 材木所に任命した場合、任命効果+24% |
明鏡
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 自部隊にかかる不利状態や能力弱化の効果時間-10% |
Ⅱ | 自部隊にかかる不利状態や能力弱化の効果時間-17% |
Ⅲ | 自部隊にかかる不利状態や能力弱化の効果時間-25% |
秘伝
弓加勢
条件 : 弓兵科の副将に配置して、攻城戦や砦戦に出陣する
系統 : 攻城
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 編制した部隊の攻撃+6% 編制した部隊の防御+6% |
Ⅱ | 編制した部隊の攻撃+8% 編制した部隊の防御+8% |
Ⅲ | 編制した部隊の攻撃+10% 編制した部隊の防御+10% |
Ⅳ | 編制した部隊の攻撃+12% 編制した部隊の防御+12% |
Ⅴ | 編制した部隊の攻撃+14% 編制した部隊の防御+14% |
細川藤孝が登場する合戦
-
本圀寺の変(ほんこくじのへん) [織田信長と三好三人衆]
1569年1月5日 ~ 6日
京都府京都市下京区堀川六条
-
桂川の戦い(かつらがわのたたかい) [織田信長と三好三人衆]
1569年1月6日
京都府京都市西京区桂一帯
-
御牧城の戦い(みまきじょうのたたかい) [織田信長と三好三人衆]
1570年10月22日
京都府久世郡久御山町
元亀元年(1570年)10月、野田・福島砦の戦いに勝利をおさめた三好三人衆は、勢いに乗じて京都に向けて軍勢を進め、織田信長方の山城御牧城を攻略する。
さらに河内高屋城や河内烏帽子形城なども諸城を一斉に攻撃し始めた。
そのため信長は、配下の木下秀吉(豊臣秀吉)や勝龍寺城主の細川藤孝、高槻城主の和田惟政らに御牧城の奪還を命じたのである。
10月22日、織田勢の猛攻により、御牧城を守っていた三好方の御牧氏らが降伏開城し奪還に成功した。
高屋城・烏帽子形城は三好軍の攻撃を守りきり、朝倉・浅井軍と三好軍との挟撃策は不発に終わってしまう。
-
淀城の戦い(よどじょうのたたかい) [室町幕府の滅亡]
1573年8月2日
京都府京都市伏見区納所北城堀
幕臣であった勝竜寺城の細川藤孝は、将軍・足利義昭が追放されると、姓を長岡と改めて織田信長に従う。
そして天正元年(1573年)8月、信長の命により足利義昭に味方した三好三人衆の一人である岩成友通が籠城する山城淀城を攻めた。
木下秀吉が淀城を包囲すると計略を用いて、番頭義元と諏訪盛直らを内応させます。防御に適している城だったので、内応している番頭義元と諏訪盛直らは岩成友通に淀古城から打って出ることを進言した。
進言通り打って出るも、番頭義元と諏訪盛直らは動かず、友通は細川藤孝の家臣・下津権内に討ち取られ、近江・高島にいた織田信長の元に首が届けられた。
友通の死により、三好三人衆も没落していくことになった。
-
高屋城の戦い(たかやじょうのたたかい) [石山合戦]
1574年4月12日
大阪府羽曳野市古市
-
孝子峠の戦い(きょうしとうげのたたかい) [織田信長の紀伊平定]
1577年2月22日
大阪府泉南郡岬町
雑賀衆
LOSE
天正五年(1577年)2月22日、志立に到着した織田軍は、海側を行く浜手と内陸を行く山方の2手に軍勢を分け、進撃していった。
浜手を進む織田勢には、織田信長の子である織田信忠・北畠 (織田) 信雄・神戸(織田)信孝のほか、明智光秀・滝川一益・丹羽長秀・長岡 (細川)藤孝・筒井順慶らが主力として加わり、和泉山脈を横切る孝子峠に向かう。
この孝子峠は、和泉と紀伊との国境に位置している重要な地点であったため、雑賀衆はここで織田勢を迎え撃とうとしたのである。
しかし織田勢の主力に撃破された雑賀衆は退き、その勢いに乗った織田勢は峠を下って中野城に向かった。
-
平井城の戦い(ひらいじょうのたたかい) [織田信長の紀伊平定]
1577年3月1日
和歌山県和歌山市平井
天正5年3月1日、浜手を進んだ織田勢のうち、滝川一益・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆・長岡藤孝・筒井順慶らの孝子峠からの3万の軍勢は、中野城を1日で攻略した後、雑賀衆を率いていた鈴木重秀の居城である平井城を攻撃した。
この平井城は大軍を迎え撃つには適さない平城であり、重秀自身はすでに退去していたのだろう。
織田軍は、圧倒的な勝利ではなかったようだ。
-
片岡城の戦い(かたおかじょうのたたかい) [松永久秀の謀反]
1577年10月1日
奈良県北葛城郡上牧町
天正5年(1577年)10月1日、織田信忠率いる大軍は信貴山近くの法隆寺に布陣する。
この日先陣の長岡(細川)藤孝・明智光秀・筒井順慶ら5000余の兵で信貴山城の支城の片岡城を攻撃した。
片岡城はもともと筒井順慶と結ぶ片岡春利の居城であったが、永禄12年(1569年)、松永久秀に奪取されていたものである。
片岡城は1000兵で守っていたが織田勢の猛攻により海老名勝正(友清)・森秀光(正友)以下150余人が討死し落城した。
10月3日、信長に「9月23日手取川の戦いで勝利した上杉謙信であったが七尾城から進軍が止まった」との報告が柴田勝家から直接安土城に入った。
信長は謙信はこれ以上進軍することはないと判断し、総大将に嫡男の織田信忠、佐久間信盛、羽柴秀吉、丹羽長秀など加賀に出陣していた部隊を信貴山城攻城の援軍として送り込み4万の大軍となっている。 -
志方城の戦い(しかたじょうのたたかい) [織田信長の播磨・但馬平定]
1578年7月 ~ 8月10日
兵庫県加古川市志方町志方町
神吉城を落とした織田勢はそのまま北西に位置する志方城を攻めた。
織田家の軍隊は次男・織田信雄を大将に細川藤孝・羽柴秀吉ら約8,000。
別所氏の一族である志方城主の櫛橋祐貞は、わずか1,000の兵で籠城を続ける。
城から打って出るなど織田勢に攻撃を仕掛けるなどするも、8月10日に不利を悟った祐貞は降伏開城した。
-
嶺山城の戦い(みねやまじょうのたたかい) [織田信長の丹波・丹後平定]
1579年7月 ~ 8月20日
京都府京丹後市峰山町赤坂
天正7年(1579年)6月に明智光秀が波多野秀治の居城八上城を落としと、波多野氏の一族や遺臣は丹後に逃れ、吉原西雲の居城である嶺山城に籠もった。
そのため光秀は翌7月に細川藤孝・忠興父子らに嶺山城を包囲させておき、黒井城が落城すると自ら主力を率いて丹後に向かった。
-
弓木城の戦い(ゆみきじょうのたたかい) [織田信長の丹波・丹後平定]
1579年8月
京都府与謝郡与謝野町弓木
天正7年(1579年)に一色義道の居城である建部山城は落城し、義道は逃亡中に中山城で自刃した。
丹後嶺山城の包囲が続けられるなか、明智光秀と長岡(細川)藤孝らは義道の子の一色義定の居城である丹後弓木城を攻撃した。
弓木城は堅固且つ大規模な山城であったので攻めあぐねた織田方は、藤孝の娘を義定に嫁すという条件で和睦した。
-
積善寺城の戦い(しゃくぜんじじょうのたたかい) [羽柴秀吉の紀伊平定]
1585年3月21日 ~ 22日
大阪府貝塚市橋本
千石堀城を攻撃したのと同じ3月21日夕刻、羽柴勢は細川藤孝、細川忠興・蒲生氏郷・大谷吉継・稲葉典道・筒井定次・伊藤長弘・佐々行政らは地蔵堂丸山古墳に陣を置き、根来寺の出城である和泉積善寺城を攻めた。
根来寺衆徒が鉄砲などで反撃を試みたため、力攻めが得策でないと判断した秀吉は、貝塚御坊(願泉寺)のト半斎了珍に和睦を仲介させる。
これに根来衆が応じたため、翌22日に積善寺城は開城した。 -
田辺城の戦い(たなべじょうのたたかい) [関ヶ原の戦い]
1600年7月19日 ~ 9月18日
京都府舞鶴市北田辺
小野木重次 (37)前田茂勝
織田信包 (57)小出吉政 (35)杉原長房 (26)谷衛友 (37)藤掛永勝
川勝秀氏
長谷川宗仁
赤松左兵衛佐
山名主殿頭
中川秀成 (30)毛利高政 (41)早川長敏
木下延俊 (23)竹中重利 (38)WIN
田辺城(舞鶴城)
慶長5年(1600年)6月16日に家康と対立して佐和山に蟄居していた石田三成は、畿内一帯が軍事的な空白地域になったことを好機と見て、大坂城に入り家康を討伐するために兵を挙げた。
石田三成は大坂城下にいる東軍方の大名の妻子を人質として取り込もうとしたが、その際、長岡(細川)忠興の正室であるガラシャが自死し、失敗に終わった。
その後、西軍は畿内近国の家康側諸勢力を制圧することに取り組んだ。
その中には丹後田辺城も含まれており、丹波福知山城主の小野木重次や亀岡城主の前田茂勝、織田信包・小出吉政・杉原長房・谷衛友・藤掛永勝・川勝秀氏・長谷川宗仁・赤松左兵衛佐・山名主殿頭ら丹波・但馬の諸大名と、中川秀成・毛利高政・早川長敏・木下延俊・竹中重利ら豊後の諸大名も加わり、1万5000の兵力で田辺城を包囲した。
田辺城を守る側は、忠興が殆どの兵を連れて出ていたため、忠興の実弟の細川幸隆と父の幽斎、さらに幽斎の甥である三淵光行が率いる500人ほどしかいなかった。
幸隆と幽斎らは抵抗するも、兵力の差が大きく、援軍の見込みもないため、月末には田辺城は落城寸前となった。
しかし、攻撃側には幽斎を文化人として尊敬する者も多く、積極的な攻撃ができていなかった。
幽斎は当時三条西実枝から古今伝授を受けており、幽斎の弟子である八条宮智仁親王やその兄の後陽成天皇らも、幽斎の討死と古今伝授の断絶を恐れていた。
そのような状況下でついに天皇は、幽斎の弟子である三条西実条と中院通勝、中将烏丸光広を勅使として派遣し、講和を命じた。
勅命を受けた幸隆と幽斎は、9月13日に田辺城を明け渡し、敵将前田茂勝の居城である丹波亀山城に移ることとなった。
この戦いは西軍の勝利となったが、丹波・但馬の西軍1万5000は田辺城に釘付けにされ、関ヶ原の本戦が行われる9月15日までに間に合わず、西軍の展開に大きな影響を及ぼした。
細川藤孝が登場する記事一覧
おすすめ記事一覧
-
歴史イベント
【新解釈】本能寺の変の真実!光秀が謀反を決意した真の動機とは?
-
ランキング
戦国武将のかっこいい異名・あだ名ランキングTOP10
-
ランキング
障害が残るほどの苦悩、遺書を残し死を覚悟した懺悔など黒田官兵衛の大ピンチTOP3!!
-
ランキング
織田信長を裏切り窮地に陥れた戦国武将ランキングTOP5
-
戦国時代の逸話
豊臣秀吉の指は6本あった?その真相に迫る【戦国時代の逸話】
-
どうする家康
「無」を掲げた徳川四天王・榊原康政(さかきばらやすまさ)とは?【マイナー武将列伝】
-
ランキング
戦国武将の変な名前ランキング!!
-
戦国時代の逸話
直江兼続が家康に送った「直江状」とは?痛烈な皮肉がたーぷり【戦国時代の逸話】
-
戦国時代の暮らし
戦国武将たちのセックス事情はどんなだった?【戦国時代の暮らし】
-
どうする家康
なぜ豊臣家に出奔したのか!?徳川家康の右腕であった石川数正(いしかわかずまさ)とは?【メジャー武将列伝】
-
どうする家康
家康から最も信頼された同級生・平岩親吉(ひらいわちかよし)とは?【マイナー武将列伝】
-
どうする家康
家康につかなかったため滅ぼされた三河武士、鵜殿長照(うどのながてる)とは?【マイナー武将列伝】
-
メジャー武将列伝
家康はどんな人質時代を送っていたのか?【メジャー武将列伝】
-
メジャー武将列伝
家康はなぜ松平から徳川に改姓したのか?【メジャー武将列伝】
-
戦国時代の女性
徳川家を苦しめた妖刀「村正」【戦国時代の逸話】
-
マイナー武将列伝
鳥居忠吉(とりいただよし)は何をした人?息子と共に三河武士の鑑と称された男【マイナー武将列伝】
-
蟹江七本槍
大久保忠世(おおくぼただよ)は何をした人?徳川家臣No.5の実力は?【マイナー武将列伝】