武将名鑑【覇道】
丹羽長秀(にわながひで)
丹羽長秀(にわながひで)
丹羽長秀 の能力値 | |||||
---|---|---|---|---|---|
統率
部隊の攻撃や防御を定め、通常攻撃のダメージに影響 |
614 (35 位) | ||||
武勇
部隊の武勇を定め、武勇戦法ダメージ、状態変化率に影響 |
575 (33 位) | ||||
知略
部隊の知略を定め、知略戦法のダメージ、状態変化率に影響 |
591 (31 位) | ||||
政治
部隊の破壊を定め、要所や城門などへのダメージに影響 |
687 (16 位) | ||||
合計 | 2467 (27 位)105人中 | ||||
戦闘力 | 4225 | ||||
天賦 | 800 | ||||
c | |||||
b | |||||
s |
その他のデータ | 歴史 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
レアリティ | 織田家臣。「米五郎左」の異名をとる。安土城の普請奉行を務めるなど、行政面で活躍した。本能寺の変後は羽柴秀吉に属し、越前北庄120万石を領した。 | ||||||||||
声優(CV) | 小手川拓也 | ||||||||||
戦法 | |||||||||||
米五郎左 | 自身1部隊の弱化効果を3つ打ち消す 対象を含む敵2部隊の防御、破壊を25%低下 |
||||||||||
織田家中では「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」という風評があった。 木綿(羽柴秀吉)は華美ではないが重宝であるのに対し、米五郎左は丹波長秀を評したもので、非常に器用でどのような任務でもこなし、米のように、上にとっても下にとっても毎日の生活上欠くことのできない存在であるというような意味である。 |
技能
才気
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 部隊の知略+4% |
Ⅱ | 部隊の知略+7% |
Ⅲ | 部隊の知略+11% |
Ⅳ | 部隊の知略+17% |
Ⅴ | 部隊の知略+25% |
石工
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 石切場に任命した場合、任命効果+8% |
Ⅱ | 石切場に任命した場合、任命効果+16% |
Ⅲ | 石切場に任命した場合、任命効果+24% |
器用
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 部隊の破壊+4% |
Ⅱ | 部隊の破壊+7% |
Ⅲ | 部隊の破壊+11% |
Ⅳ | 部隊の破壊+17% |
Ⅴ | 部隊の破壊+25% |
秘伝
弓加勢
条件 : 弓兵科の副将に配置して、攻城戦や砦戦に出陣する
系統 : 攻城
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 編制した部隊の攻撃+6% 編制した部隊の防御+6% |
Ⅱ | 編制した部隊の攻撃+8% 編制した部隊の防御+8% |
Ⅲ | 編制した部隊の攻撃+10% 編制した部隊の防御+10% |
Ⅳ | 編制した部隊の攻撃+12% 編制した部隊の防御+12% |
Ⅴ | 編制した部隊の攻撃+14% 編制した部隊の防御+14% |
丹羽長秀が登場する合戦
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鵜沼城の戦い(うぬまじょうのたたかい) [織田信長の美濃平定]
1565年8月
岐阜県各務原市鵜沼
-
箕作城の戦い(みつくりじょうのたたかい) [織田信長の上洛戦]
1568年9月12日
滋賀県東近江市五個荘山本町
建部秀明
吉田重光
狛修理亮
吉田新助
LOSE
佐和山城から見た琵琶湖
永禄11年(1568年)8月7日、織田信長は近江小谷城の支城である佐和山城に赴き、ここで上洛途上に位置する観音寺城の六角承禎・義治父子に対し、入洛を助け道をあけるよう、足利義昭の近臣であった和田惟政ら家臣3名の使者を送って申し出た。
しかし、六角父子はこれを拒絶する。
信長は再度使者を送って入洛を助けるよう要請するも、病気を理由に使者に会わず追い返されてしまった。
7日間佐和山城にいた信長は、開戦もやむを得ないと考え岐阜城に戻った。
9月7日、六角氏征伐のため尾張・美濃・伊勢の大軍を率いて岐阜を出陣した。
8日には佐和山城近くの高宮に本陣をおき、義弟にあたる浅井長政隊と合流する。
さらに、松平信一率いる徳川家康からの援軍も加わり、織田・浅井・徳川連合軍の軍勢は5万 ~ 6万に膨れ上がった。
対して六角勢は、居城の観音寺城に馬廻り衆1000騎を、支城の箕作城に建部秀明・吉田重光・狛修理亮・吉田新助ら3000の兵を、和田山城には田中治部大輔ら主力6000を、その他支城18城に被官衆を置いて、各城が連繫しながら織田・浅井・徳川勢を挟撃する作戦にでる。
9月12日早朝、連合軍は愛知川を渡河すると3隊に分かれ、稲葉良通が率いる第1隊が和田山城へ、柴田勝家と森可成が率いる第2隊は観音寺城へ、信長・滝川一益・丹羽長秀・木下秀吉・佐久間信盛らの第3隊が箕作城に向かっていた。
織田軍はまず和田山城を攻撃すると予測していたため、六角氏は和田山城に主力を置いていたが、戦端は箕作城でひらかれた。
まず木下隊2300が北の口から、丹羽隊3000が東の口から攻撃を開始した。
しかし箕作城は急坂や大木が覆う堅城で合ったため、午後五時には逆に追い崩されてしまう。
その夜、木下秀吉は夜襲を決行する。
3尺の松明を数百本用意させ、中腹まで50箇所に配置し一斉に火をつけ、これを合図に攻撃した。
7時間以上戦ったその日のうちに夜襲を仕掛けてくるとは考えてもいなかったのか箕作城兵は驚き、防戦したが支えきれず、夜明け前に落城してしまった。
200以上の首級が上がった。
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大河内城の戦い(おかわちじょうのたたかい) [織田信長の伊勢平定]
1569年8月26日 ~ 10月3日
三重県松阪市大阿坂町
織田信長 (35)森可成 (46)坂井政尚
蜂屋頼隆 (35)佐久間信盛 (42)豊臣秀吉 (32)氏家卜全 (56)安藤守就 (46)織田信包 (26)滝川一益 (44)丹羽長秀 (34)稲葉一鉄 (54)池田恒興 (33)織田信雄 (11)WIN
1569年(永禄12年)8月20日、上洛戦を終えて美濃に戻っていた信長は、伊勢攻略のため総勢7万といわれる大軍で岐阜を出陣。
23日、事前に送り込んだ滝川一益が寝返らせすことに成功した木造城に着陣。北畠軍は天険の要害である大河内城やその支城に籠城しており、大河内城の本軍は約8,000だったと言われている。
織田軍の木下秀吉は史上の阿坂城を落城させたり、滝川一益は多芸城を焼き討ちにしたりと織田軍が優勢となるも、要害である大河内城はなかなか落とせなかった。
そこで兵糧攻めを行い、北畠家は降伏。
という北畠家に不利な条件で和睦した。
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佐和山城の戦い(さわやまじょうのたたかい) [織田信長の越前・北近江平定]
1570年7月1日 ~ 1571年2月24日
滋賀県彦根市佐和山町
佐和山城から見た琵琶湖
元亀元(1570年)年6月の姉川の戦いで朝倉義景・浅井長政勢が織田信長に敗れた後、浅井家臣の猛将・磯野員昌は敵陣を突破して居城の佐和山城に戻っていた。
元亀元年7月1日から織田信長は家臣の丹羽長秀に、近江を攻略する上で最重要拠点のひとつであるこの佐和山城を包囲させた。
堅城の佐和山城は8ヶ月も籠城するも孤立させられ、翌元亀2年(1571年)2月24日に信長に降伏し開城した。
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志村城の戦い(しむらじょうのたたかい) [織田信長の南近江平定]
1571年9月1日
滋賀県東近江市新宮町
元亀2年(1571年)9月1日、織田信長は佐久間信盛・柴田勝家・丹羽長秀・中川重政に六角氏の家臣である志村資則が守る志村城と小川祐忠の守る小川城の攻略を命じた。
力攻めにした柴田隊家臣たちは、670もの首級を上げ志村城を落城させました。
これを見た小川祐忠は戦わずに降伏した。その後、六角氏と結んだ本願寺の金森御坊に向かう。
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小谷城の戦い(おだにじょうのたたかい) [織田信長の越前・北近江平定]
1572年7月21日 ~ 9月16日
滋賀県長浜市湖北町伊部
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石山砦の戦い(いしやまとりでのたたかい) [室町幕府の滅亡]
1573年2月24日 ~ 26日
滋賀県大津市石山寺
元亀4年(1576年)2月、織田信長に反旗を翻した足利義昭は、近江瀬田城主・山岡景隆の弟で園城寺(三井寺) 光浄院の山岡景友(暹慶)に信長の入京を阻止するよう命じます。
そのため山岡景友は急いで石山と今堅田に砦を築いた。これに対し2月20日、信長は家臣の柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆らを派遣し、24日に織田軍は勢田から琵琶湖を渡り石山砦を攻撃する。
石山砦には山岡景友が率いる伊賀衆・甲賀衆が守備していたが、未完成の砦での防戦を断念した山岡景友は26日に降伏して退去した。
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今堅田砦の戦い(いまかたたとりでのたたかい) [室町幕府の滅亡]
1573年2月29日
滋賀県大津市今堅田
元亀4年(1573年)2月26日に石山砦を落とした柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆ら織田勢は、柴田勝家を守りに残すと今堅田砦に向かった。
2月29日、織田軍は湖上に面した今堅田城を攻撃した。
織田勢は二手に分かれており、丹羽長秀・蜂屋頼隆らは陸路を北上して陸上から攻撃を加えており、水路を北上した明智光秀らは午前8時ごろ湖上から攻撃を加えている。
足利義昭についた渡辺昌・磯谷久次らが籠城して防戦に努めたが、正午ごろに明智隊が城に突入し落城。
この戦いで義昭側は死者500人、負傷者1,000余人を出したとされ、一方で光秀は家臣18人がこの戦いで戦死している。
光秀は今堅田を平定後、そのまま坂本城に入り、他の三将は帰還した。
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鯰江城の戦い(なまずえじょうのたたかい) [織田信長の南近江平定]
1573年4月11日 ~ 9月4日
滋賀県東近江市なまず江町
野洲川の戦いに敗れたあとも、六角承禎・義治父子は織田信長に対する抵抗を続け、元亀4年(1573年)4月、百済寺の僧や一向宗門徒とともに鯰江貞景の居城である近江鯰江城に籠城し、空濠の増設・土塁の増強を含む改修を施した。
これに対し、信長は4月11日、柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀、蒲生賢秀らに鯰江城を攻めさせた。
織田勢は鯰江城の周囲に井元城や中戸城等の城砦を築いて包囲するとともに、六角氏を支援していた湖東三山のひとつ百済寺を焼き討ちする。
六角父子は小谷城の落城をうけて鯰江城から脱出したらしく、信長の命を受けた柴田勝家の再度の侵攻により、9月4日に落城した。
鯰江城落城後、鯰江氏は全国へ散り各大名に仕えたが、鯰江貞景の子・定春は豊臣秀吉に仕え大坂に所領を与えられ、大阪市城東区に鯰江の地名を残している。
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槇島城の戦い(まきしまじょうのたたかい) [室町幕府の滅亡]
1573年7月18日
京都府宇治市槇島町
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刀禰坂の戦い(とねざかのたたかい) [織田信長の越前・北近江平定]
1573年8月13日
福井県敦賀市刀根
天正元年(1573年)織田信長が浅井長政・朝倉義景を滅ぼすため戦を仕掛けます。
信長は3万の軍を率いて岐阜城を発ち近江に攻め入ります。まず浅井長政の小谷城が包囲されてしまいます。
朝倉義景は小谷城を救援するため大嶽砦に布陣するも、暴風雨の中織田勢に奇襲を行われ陥落していまいます。
織田勢は続いて朝倉勢が守る丁野山城も落とします。
朝倉勢は主力重臣らを欠いた上、戦意も低く、勝ち目がないことを悟り越前へ撤退を決断しました。
朝倉軍が撤退を開始するや、信長は本隊を率い、自ら先頭指揮を行って朝倉軍を追撃します。
義景は疋田城への撤退を目標とし、経路である刀禰坂に向かったが、ここでも信長自らが率いる織田軍の追討を受ける。
余呉から刀禰坂、敦賀にかけての撤退中、朝倉軍は織田軍に押され、織田方の記録に拠れば3,000人以上と言われる死者を出した。
朝倉軍もある者は踏み止まり、ある者は反転して織田方を押し戻すなど果敢に奮闘したが、北庄城主の朝倉景行や当時17歳の朝倉道景、朝倉景氏、朝倉景冬、といった一門衆を含め、朝倉氏の客将となっていた斎藤龍興や河合吉統、山崎吉家など大名・朝倉氏本家の軍事中核を成していたであろう武将が多数戦死しました。
織田軍は翌14日まで朝倉軍を徹底的に追撃した。
これにより朝倉軍の近江遠征軍、つまり朝倉本家の直属軍勢と部将はほぼ壊滅し朝倉義景は手勢のみを率い、一乗谷へ帰還しました。 -
孝子峠の戦い(きょうしとうげのたたかい) [織田信長の紀伊平定]
1577年2月22日
大阪府泉南郡岬町
雑賀衆
LOSE
天正五年(1577年)2月22日、志立に到着した織田軍は、海側を行く浜手と内陸を行く山方の2手に軍勢を分け、進撃していった。
浜手を進む織田勢には、織田信長の子である織田信忠・北畠 (織田) 信雄・神戸(織田)信孝のほか、明智光秀・滝川一益・丹羽長秀・長岡 (細川)藤孝・筒井順慶らが主力として加わり、和泉山脈を横切る孝子峠に向かう。
この孝子峠は、和泉と紀伊との国境に位置している重要な地点であったため、雑賀衆はここで織田勢を迎え撃とうとしたのである。
しかし織田勢の主力に撃破された雑賀衆は退き、その勢いに乗った織田勢は峠を下って中野城に向かった。
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平井城の戦い(ひらいじょうのたたかい) [織田信長の紀伊平定]
1577年3月1日
和歌山県和歌山市平井
天正5年3月1日、浜手を進んだ織田勢のうち、滝川一益・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆・長岡藤孝・筒井順慶らの孝子峠からの3万の軍勢は、中野城を1日で攻略した後、雑賀衆を率いていた鈴木重秀の居城である平井城を攻撃した。
この平井城は大軍を迎え撃つには適さない平城であり、重秀自身はすでに退去していたのだろう。
織田軍は、圧倒的な勝利ではなかったようだ。
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細工所城の戦い(さいくしょじょうのたたかい) [織田信長の丹波・丹後平定]
1578年4月10日 ~ 26日
京都府南丹市園部町小桜町
織田信長の命で丹波八上城を包囲していた明智光秀らは、本願寺の戦いのため摂津に転戦しその後また丹波に戻ると八上城を包囲し、周りの支城を攻撃する。
天正6年(1578年)4月10日から明智光秀・滝川一益・丹羽長秀らは、波多野氏の属城であり荒木氏綱が守る丹波細工所城を包囲した。
激戦の末に水の手を絶たれた荒木氏綱らは城を捨てて退去する。
こののち細工所城には光秀の家臣が入った。
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氷上城の戦い(ひかみじょうのたたかい) [織田信長の丹波・丹後平定]
1579年5月5日
兵庫県丹波市氷上町氷上
丹波八上城に拠る波多野秀治が織田勢に包囲されるなか、波多野氏の庶流にあたる氷上城の波多野宗長・宗貞父子も抵抗を続けていた。
天正7年(1579年)1月、織田氏の家臣の丹羽長秀・羽柴秀長の軍勢に居城氷上城を包囲されると、5か月に及び籠城した。
しかし城の兵糧が尽きると、羽柴秀長は宗長の才を惜しみ降伏を薦めるが、5月5日、宗長・宗貞父子が城を打って出たため両軍は八幡山で衝突した敗れた宗長・宗貞父子は追撃してきた織田勢に氷上城を包囲され、宗長は城に火を放ち、子の宗貞とともに自害して果てた。
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長浜城の戦い(ながはまじょうのたたかい) [賤ヶ岳の戦い]
1582年12月11日 ~ 15日
滋賀県長浜市公園町
天正10年(1582年)12月11日、 羽柴秀吉は丹羽長秀・筒井順慶・長岡 (細川) 忠興・池田恒興・ 蜂屋頼隆ら5万余の軍勢を率いて、長浜城の柴田勝豊を包囲した。
勝豊は越前北庄城主・柴田勝家の養子であったが、勝家の実子の勝敏が誕生したため勝豊は嗣子としての資格を失い、勝家に疎んじられるようになっていたという。さらに同じ甥の立場であった佐久間盛政が勝家に重用されることに対しても不満があった。
雪に阻まれている勝家からの後詰も期待できないなか、勝豊はさしたる抵抗もなく本領安堵の条件を容れて、12月15日秀吉に降伏し長浜城を明け渡した。
すでに勝豊は病んでいた様子で、開城後すぐに京都で療養した。 -
岐阜城の戦い(ぎふじょうのたたかい) [賤ヶ岳の戦い]
1582年12月20日 ~ 29日
岐阜県岐阜市大宮町
岐阜城
三法師は安土城へ移ることが清洲会議で決定していたが、羽柴秀吉と対立する信孝は三法師を岐阜城から離さず、12月2日に1万人余の兵を擁して岐阜城で挙兵した。
これを謀反の口実として、秀吉は2万余の軍勢でただちに出陣。
丹羽長秀、池田恒興ら諸将の多くも秀吉を支持して加勢した。信孝と結ぶ越前北庄城の柴田勝家は積雪のため援軍を送ることができないまま、秀吉は長浜城の柴田勝豊を降し、信孝の岐阜城を包囲した。
依然として美濃を掌握しきれていなかった信孝は伊勢の滝川一益の勧めに従い、12月20日に三法師を秀吉に渡すとや母の坂氏や乳母・娘らを人質として秀吉に降伏した。
秀吉は12月29日に包囲を解く。この結果、東美濃で独立的行動をとっていた森長可・稲葉一鉄や与力の氏家行広らも信孝側を離れ、家老の岡本良勝・斎藤利堯も秀吉側に寝返った。
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