武将名鑑【信長の野望 新生】
蘆田信蕃(あしだのぶしげ)
蘆田信蕃(あしだのぶしげ)
蘆田信蕃 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
63 (638 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
66 (536 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
60 (905 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
40 (1774 位) | ||||
合計 | 229 (856 位)2201人中 |
蘆田信蕃 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
別名 | 依田信蕃 | ||||
幼名 | 源十郎 | ||||
父 | 蘆田信守 | ||||
配偶者・正室 | 跡部勝資の娘 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1548年 | 武田家臣。信守の子。二俣城主を務め、父とともに徳川軍と戦った。主家滅亡後は徳川家に仕え、信濃攻略に参加するが岩尾城攻撃戦で銃弾を浴び、戦死した。 | |||||||||
死亡年 | 1583年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
中道 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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鉄壁 | 所属城の耐久ダメージ減少 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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威圧 | 敵部隊の攻撃低下 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 未登場 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 元服前 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 元服前 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 23 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 35 |
蘆田信蕃が登場する合戦
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田中城の戦い [織田信長の甲斐・信濃平定]
1582年2月20日 ~ 3月1日
静岡県藤枝市田中
織田信長の軍勢に呼応して、2月18日、徳川家康も遠江浜松城を出陣して武田勝頼の領国駿河に侵入する。
遠江小山城を自落させた家康は、大須賀康高・酒井忠次・本多忠勝・榊原康政らを先鋒にして、武田勝頼の属城である駿河田中城を包囲した。田中城は堅固に備えを立てて落城の気配を見せなかった。
攻めあぐねた家康は成瀬正一に命じて開城の説得に当たらせるが、田中城の依田信蕃はこれを拒絶。さらに籠城を続ける内に織田軍の攻撃で武田勝頼が自害し、その一族である穴山梅雪より開城を勧める書簡を受けて、ようやく3月1日に信濃の本領を安堵する条件で城を大久保忠世に引き渡した。
開城後、信蕃は家康より召抱えの要請を受けるが、「お館様(勝頼)の安否の詳細が判明されない限りは仰せに従いかねる」と答えて謝絶した。
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小諸城の戦い [天正壬午の乱]
1582年7月12日
長野県小諸市古城
小諸城大手門
二俣城の戦いや田中城の戦いにおいて武田方として活躍していた依田信蕃は、天正壬午の乱に際し徳川家康に臣従する。
信蕃は家康の命に従い、武田氏の遺臣らを率いて信濃佐久に侵入し小諸城に入った。
しかし天正10年(1582年)7月12日に北条氏直に小諸城が攻撃されたため、信蕃は春日城(三沢小屋)に退く。
氏直は獲得した小諸城に大導寺政繁を配置している。 -
田口城の戦い [天正壬午の乱]
1583年1月
長野県佐久市田口
武田氏の遺臣である依田信蕃は、天正壬午の乱を機に徳川家康に臣従すると、信濃佐久郡における北条方諸城の攻略に乗り出す。
天正11年(1583年)1月には、同じ武田氏の遺臣である三枝昌吉らとともに、 信濃田口城を攻撃する。
田口城主の(相木)依田昌朝は抵抗を諦め、城を捨てて小田原の北条氏を頼って落ちのびた。
信蕃は翌月の岩尾城の戦いの際に弟とともに戦死したため、子の竹福丸がこのときの戦功により「松平」の名字と「康」の一字を与えられて松平康国と名乗り、小諸10万石の大名となった。
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岩尾城の戦い [天正壬午の乱]
1583年2月20日 ~ 22日
長野県佐久市鳴瀬
徳川家康に従って信濃佐久郡に入った依田信蕃は、天正10年(1582年)の間に北条方の10余城を攻略し、残るは岩尾城と小諸城だけになっていた。
天正11年(1583年)2月20日、信蕃は岩尾城を包囲する。城主・岩尾行吉が防戦に努めたことから、攻めあぐねた信蕃は22日、自ら城内に攻め入ろうとして弟・信幸とともに銃撃に合い戦死する。
3月3日、行吉は徳川方の軍監・柴田康忠の勧告に応じて岩尾城を開城して明け渡し、 上野保渡田に幽居した。依田信蕃が戦死したため、嫡男の康国が松平康国として小諸城を継いだ。
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